【考察-2/4】「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」- 沙代の真意と「妖怪を見ない」楽しみ方

ひとつ前の記事では「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」について、本作の大凡のストーリーと世間の評価軸について、制作陣はどのような意図で作品を作ったと語っているか順番に紹介してきました。

これらを受けて、私は「ゲゲゲの謎」に興味を持ち「制作陣がどのようなテーマを描きたいと考えているか」を読み解くために、自ら映画館に足を運びました。ここからは、私が実際に「ゲゲゲの謎」を視聴した後の感想を書いていきたいと思います。

この記事では特に、沙代の心の闇を示す描写と「見えないもの」に関する演出上のルールから読み取った、私なりの「ゲ謎」の楽しみ方をご紹介していきたいと思います。

プロローグ:雑誌記者の山田が鬼太郎・猫娘に会う

物語は現代。廃刊寸前の雑誌記者、山田が「妖怪少年ゲゲゲの鬼太郎の出生の秘密」を暴くため、廃村となった「哭倉村」の跡地に潜入するところからスタートします。

本作が「鬼太郎の誕生=鬼太郎の父の話を描くものである」ということは、公開前から明らかにされていますので「現代から過去へ場面転換する形で物語が進むのだな」ということがこの時点でわかります。さらに「過去の時代で何らかの事件を解決した後は、再び現代に話が戻るのだろう」という点もなんとなく想像がつきます。

実際、物語もそのように進行し、舞台は現代から昭和31年の東京に切り替わりました。

血液銀行に務める水木という男が、一人目の主人公として登場します。財界の実力者であった龍賀時貞がなくなり、「誰が跡目を継ぐか」「新しい当主といち早く良い関係を構築できるか」が血液銀行の上層部で問題になり、出世のチャンスと捉えた水木が「自分を龍賀家のある哭倉村に行かせてくれ」と頼み込むところから本編がスタートします。

主人公「水木」は現代人に近い性格設定

血液銀行に務める「水木」という男が幼少期の鬼太郎を育てた、という設定は水木しげるの原作「墓場鬼太郎」から存在する設定のため、単純にそれを踏襲したものと思われます。

水木(鬼太郎シリーズ) (みずき)とは【ピクシブ百科事典】
水木(鬼太郎シリーズ)がイラスト付きでわかる! 『墓場鬼太郎』等の鬼太郎シリーズ作品に登場するキャラクター。原作者の水木しげるとはまた異なる。また、大まかな設定は共通しているものの、作品ごとに細部の設定も異なる。 CV:大川透(墓場)、堀勝之祐(まんがビデオ)、木内秀信(鬼太郎誕生) シリーズ全体での概要 鬼太郎シリーズに登場するキャラクターで、鬼太郎の育ての親。 前史である『墓場鬼太郎』及び、『ゲゲゲの鬼太郎』でも「鬼太郎誕生」のエピソードがリブートされた際は登場するが、作品ごとに独立した世界線を描いているため細かな設定等には違いがある。 ただ
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ただ、原作や過去のアニメ版とは異なる設定もあります。

 水木の髪型をオールバックにするというアイデアもあったといい、谷田部さんによると「水木は野心家、猛烈サラリーマン、復員兵という設定があったので今の髪型に変わった」といい、古賀監督は「キズを付けたのは、(戦争で)誰にもケアされずにいた。その過去を忘れたいが忘れられない。最後に、額にあるキズをつけることで、(自分に負った心の傷を)表現した」と説明した。

https://news.yahoo.co.jp/articles/0a6f5f902301bd2bb5aac77dc7799a6eb7ebe6ab

原作の水木はどちらかというと穏やかな性格であり、上昇志向が高い側面はありません。また、復員兵という設定も、Dr.マクガイヤーが触れていたように、同じく水木しげる作品である「総員玉砕せよ!」の設定と重ねるために付け加えられたものでしょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%93%A1%E7%8E%89%E7%A0%95%E3%81%9B%E3%82%88!

つまり、これらの主人公・水木の原作とは異なる設定改変部分には明確に「制作陣の描きたいテーマ」が含まれていると考えられます。

私はそれほど鬼太郎に詳しいわけでもなかったため、視聴した時点ではこうした背景には気が付きませんでした。ただ、水木の設定は確実に「原作とは替えられているだろう」という確信はありました。なぜなら水木の性格である猛烈サラリーマン=企業戦士とは、高度経済成長期(昭和40~50年代)に生まれた概念であって、物語の舞台である昭和31年では時代設定としてやや早すぎるからです。

日本企業は旧日本軍の影響を強く受けていたといわれる[1]。

戦後の日本の経済成長を支える存在であると企業や社会から重宝され、高度経済成長以降「日本株式会社」の主な担い手となった。

彼らは、特に1968年(昭和43年)頃から昭和50年代にかけて、丸善石油(現・コスモ石油)のCMの「モーレツ」にちなんで「猛烈社員」「モーレツ社員」等と呼ばれた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E6%88%A6%E5%A3%AB

しかも、水木は心の底からの野心家・猛烈サラリーマンではなく、戦場で上官から利用されたというトラウマを抱えており「負け犬」になってまた同じ目に合いたくないという思いから「成り上がって他人から利用されない立場になってやる」という姿勢を持つようになった、という人物設定です。

これは哭倉村に向かう電車の中での、鬼太郎の父との出会いのシーンから段階的に描かれていきますが、この水木の人物像は「戦後初期の日本人」というよりもむしろ「現代(令和時代)の日本人」の精神性を表していると言えるでしょう。

そもそも、昭和30年代であろうと高度経済成長期であろうと、日本人は「会社のために自分を犠牲にして激務に勤しむ」ということに何ら疑問を抱いていない人のほうが大勢を占めていたと思います。戦後の焼け野原から、すべてを失った時点から懸命に復興して「努力すれば幸福になれる」と多くの人が信じていたであろう時代です。

仮に復員兵であったとしても、戦地での上官と会社の上司を重ね合わせて「自分は強者に利用される弱者だ」と考えるのは時代背景を考えると不自然です。そう考えるとやはり、水木がそのような性格でなければならなかった演出上の理由がある、と考えるほうが自然です。

また、原作者・水木しげる氏は漫画家として大成するまでの間、経済的に厳しい状況下で長年耐え忍ばなければならなかったことが知られています。

水木しげる (みずきしげる)とは【ピクシブ百科事典】
水木しげるがイラスト付きでわかる! 日本の漫画家、妖怪研究家。大正11年(1922年)3月8日 – 平成27年(2015年)11月30日。 解説 本名:武良茂 〔むら しげる〕。 一人称は「ボク」「オレ」「わし」「わたし」、「水木サン(漫画家”水木しげる”を一つのキャラクターとして意識したもの)」。ファンからは「水木御大」の愛称で親しまれた。また荒俣宏が「大先生(おおせんせい)」と呼んでいるためそれに倣うファンもいる。 『ゲゲゲの鬼太郎』を代表とする妖怪漫画と、自身の戦争体験に基づい
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「『戦場で理不尽に殺される』よりは随分やんわりとしているが、それでも『餓死』は恐ろしい」と、貧乏の辛さ、生きることの苦しみを実感した時代だった。

https://dic.pixiv.net/a/%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E3%81%97%E3%81%92%E3%82%8B

こうした経済面での原作者の苦境も「水木」の性格設定に影響を与えたと思われます。

昭和時代を表すアイコンとしての「タバコ」

もうひとつ、この時点で触れておくべきこととしては、電車の中で水木がタバコを吸おうとするも、結局吸わずに終わるシーンでしょう。Dr.マクガイヤーはこのシーンを、タバコが登場しなかったゴジラ -1.0と比較して「昭和時代としてのリアリティをあげる演出である」との評価を下していました。

電車の中で咳をする女の子がおり、周りでタバコを吸う乗客がたくさんいるなか、水木もタバコをすおうとする、というシーンですが、水木がタバコを吸うのをやめたのは鬼太郎の父が急に現れて驚いたためであり、別に女の子を気遣ったからではない、という点に注意が必要です。

あくまで昭和初期においては人前でタバコを吸うのは当たり前の行為であり「副流煙に配慮する」といった発想自体が存在しませんでした。もっと言うなら、周りの乗客は女の子が咳をしているのに気づいていない、あるいは気づいていたとしてもそれとタバコの因果関係をまったく意識していない(病気化もしくは元々気管支が弱い、くらいに考えるはず)と考えるほうが当時の時代背景を考えると合っていると思います。

また、このシーン以降で水木が沙代や時弥の前でタバコを吸うのをやめる描写があります。これについては「顧客の家族であるため、配慮した」と考えることもできますが、私は他にも理由があると考えています(後で触れます)。この「タバコを吸うか、吸わないか」「吸うのをやめるとして、なにが理由か」はのちのシーンに続くひとつの伏線として機能していると思います。

「見えないもの」が徐々に見えるようになる演出

鬼太郎作品では「人間の登場人物が、最初は妖怪が見えなかったが徐々に見えるようになっていく」という演出が取られることがあります。代表的なものとしては、アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」第6部・第1話で、メインキャラの犬山まなが鬼太郎と出会い、最初はぼんやりとしか見えていなかった妖怪の姿が徐々に見えるようになっていく、という展開があります。

※当該シーンは本動画の12:00あたりから

鬼太郎作品において妖怪は「目には見えない、科学では解明できない存在」として描かれており、そういったものの存在を知り、信じれば信じるほど見えるようになっていく、という描かれた方がされます。

「ゲ謎」においても、同様の演出が繰り返しされますが、その始まりが電車の中で水木が鬼太郎の父と出会うシーンでしょう。ただし、この時点においては周囲が暗くなったり、鬼太郎の父が一瞬で現れて消えたり(するように水木には感じられた)という描写があるのみで、決定的な超常現象が描かれているわけではありません。「段階を踏んで水木は妖怪を信じるようになり、それに伴って目に見えないものが見えるようになっていく」という点がポイントです。

私はこの演出こそが「ゲ謎」を見る上での最大のキーポイントになると考えており、これをどう解釈するかによって作品構造の理解が大きく変わってくると考えています。この点についてはストーリーの進行に合わせて、段階的に解説していきたいと思います。

水木が沙代に「憑かれる」シーン

この後は、水木がタクシーで哭倉村に向かう途中で、戦場での玉砕を思い出すシーン。そして、沙代や時弥との出会いのシーンと続きます。

沙代との出会いのシーンでは、水木はわかりやすく顧客の家族に取り入ろうとし、沙代は村の外から来た男の雰囲気に惹かれる、というわかりやすい演出がなされます。事前に横溝正史のような世界観が舞台だ、という話は聞いていたので、なにか事件がおこるのだろうという予感はしていたので、私はこの時点で「もし事件が起こるのなら犯人はこの沙代という娘だな」と確信しました。

男の人に膝や肩を貸してもらい、鼻緒を直してもらって頬を赤らめる、というのはよくある演出ですので、それだけでこの娘が危険な人物かどうかは判断できません。ただ、その後の水木と沙代、時弥が別れ、水木の後ろ姿を見送るシーンでの沙代の目線が映るシーンがやたらと長く、私の体感では2秒くらいに感じられました。

この長さが私にとっては少し不自然でした。別に水木と沙代の間にこの後何らかのロマンスが生まれるにしても、この時点では鼻緒のときに顔を赤らめておくくらいでも十分であって、これから何回か接触するうちにだんだん惹かれ合っていく、という展開にしても問題はないはずですし、むしろそれが自然です。

にも関わらず、ここであそこまで念入りに「この娘は主人公のことが気になっていますよ」という演出を入れてくるのは、そこにもなにか制作陣の意図があるのだろう、と考えました。

よく妖怪や悪霊などにターゲットとされることを「憑かれる」「魅入られる」というような表現をする場合がありますが、私にはあの瞬間の沙代の目線がそのように感じられたのです。この村で何らかの事件が起こるであろうこと、年齢から言っても「現時点で進行中の陰謀」には無関係であろうことも想像がつきましたので、そうなると「これから起こるであろう事件」の首謀者であろうという点に発想が至った、というわけです。

「お籠り」に暗喩される近親交配

続いて水木は村長の長田幻治と男たちに囲まれるものの、龍賀製薬社長で次期当主と目される龍賀克典に助けられ、無事屋敷へ入ることを許される、という展開になります。

この時点で気になったのは、克典の口から語られた、葬儀の夜は各々が部屋にこもって過ごす「お籠り」という儀式のことです。

「お籠り」というワードを聞いたとき、頭に浮かんだのはヤングマガジンで連載されていた漫画「センゴク権兵衛」で描かれていた「参籠(おこもり)」という儀式でした。

「センゴク」での「参籠」の儀式は、淀殿が豊臣秀吉の子を生むために寺に籠もって日夜祈る、という儀式のことですが、裏の目的に「秀吉とは別の男の子種を受ける」という点があります。もちろん秀吉も承知の上のことで、医学が未発達な時代にあっては、そうした生まれた子どもも「秀吉の実子である」として扱われた、との設定になっています。

「センゴク」のものとは設定こそ異なるものの「各自が部屋から出ない=誰かになにかを邪魔されない・気づかれないようにする必要がある」との背景や「おこもり」という字面が同じことから、同じような儀式が行われるのだろう、という推測ができます。

席次から読み取れる複雑な家族関係

場面は変わって「犬神家」のオマージュとなる、一族勢ぞろいの場にて遺言状の読み上げが行われます。長らく表に姿を表してこなかったとされる長男・龍賀時麿がおしろいを塗った平安貴族のような姿で登場し、水木を驚かせますが、これも「犬神家」に登場する白マスクの人物「スケキヨ」のオマージュでしょう。

このシーンで注目するべきは、一族の席次です。亡き時貞の長男である時麿が一段高い上座に、その隣に長女・乙米の夫である克典が座ります。そして残る一族は左右に分かれて、

上座に向かって右手:長女乙米、娘・沙代、次女丙江

上座に向かって左手:長田時弥、三女庚子、庚子の夫・幻治

という順番に並んでいます。当然、部屋の奥に行くほどが上座ですので、そちらに近いほうが地位が高いということになります。右手側については、長女(の家族)、次女という並びですので特に疑問はありません。問題は左手側のほうで、長田家の長であるはずの幻治が最も下座に座っている、という点が引っかかります。

「幻治は龍賀の血を引いていないから」という理由も考えられますが、それであれば同じく龍賀の血を引いていない婿の克典が上座に座り、時麿と肩を並べているのと比べて不自然です。克典が乙米よりも上座に座っていることを前提に考えるなら、幻治・庚子・時弥の順番にならなければおかしいはずです。(または、男児を優先するのなら幻治・時弥・庚子)

直後のシーンで、時弥は時麿の養子となり、龍賀家の継承順位では第2位に属することが判明します。不自然な席次の件と合わせて考えるのなら、以下のような推測が成り立ちます。

  • 時弥は幻治ではなく、時貞の子である
  • 幻治もそのことを承知している
  • 時弥は男系・女系でそれぞれ時貞の血を受け継ぐため、継承順位が高い

さらに付け加えるのなら、時麿もおそらくは男系・女系の両方で龍賀の血を強く受け継いでいるものと考えられます。後のシーンで龍賀一族はその霊力を保つために近親交配を繰り返していたことが判明しますが、時麿の体が弱いという設定も近親交配による結果であろうと推察できます。(むしろ、そのことをこの時点で推測させるための伏線だと言えるでしょう)

本来であれば時麿という長男がいるわけですから、彼を跡継ぎにすればそれでよかったはずですが、虚弱体質というハンディがあるため、予備として時弥を育成し2人1セットで後継ぎに据えた、という成り行きでしょう。

時麿の体が弱いことは幼少期からわかっていたはずですし、時貞としては時麿に子どもを作らせてあとを継がせるよりも「健康な自分の子どもをもう一人つくり、時麿のあとを継がせる」という方がよりよいプランだと考えたのだと思います。そのために時麿には結婚を許さなかったのだと思います。(新たに生まれる自身の子どもとの跡目争いを避けるため)ただ、結果として時弥もまた虚弱体質を受け継いでしまったのは皮肉でしかありません。

透けて見える沙代の狡猾さ

ストーリーはお籠りの夜に時麿が何者かに殺害され、犯人と目される怪しいよそ者として鬼太郎の父(ゲゲ郎)が捉えられるところまで進みます。この前後で気になるシーンと言えば、龍哭と呼ばれる謎の地震が起きたことと、乙米が鎧の裏の隠し扉を操作してどこかに向かい「保ってあと3日、3日以内に時弥を連れてこい」と語っているところです。これらはのちのシーンとの絡みがあるため、後でまとめて解説したいと思います。

同じ部屋で鬼太郎の父と過ごすことになった水木ですが、最初は彼を「負け犬」と呼び心を許さない様子を見せます。その後、時弥を含めた会話などを通じて徐々に打ち解けていくわけですが「寝ている間に牢屋の中に入れられる」「温泉に入っている鬼太郎の父が何者かと話す」など、徐々に不可思議な現象を体験していくことになります。ただ、この時点では「なにかおかしな気がする」という程度で、決定的な超常現象は見ていない、という点に注意が必要です。

その後、沙代との会話や龍賀家の次男で精神を病んでいる孝三の姿を見かけるパートや、龍賀の富の源泉となっている謎の薬品「M」の出処を調査するよう、克典から依頼されるパートが挟まれます。

私が気になったのは、沙代から「自分を東京に連れて行ってほしい」と懇願されるシーンです。一見、最初の出会いや遺産相続の場面での会話などの延長として「惚れた男に自分を連れて逃げてほしい」と若い娘が頼み込むというよくあるシーンにも見えます。しかし、よく考えてみるとこの時点で「なぜ依頼する相手が水木でなければならないのか?」という理由が明確にされていません。

哭倉村によそ者がやってくることは、珍しい例ではあるもののまったく事例がないわけではありません。実際、血液銀行も過去に「M」の所在を探るべく複数の社員を送り込んだものの、帰還しなかったということが先に示唆されています。

水木と沙代の接点もまだ数えるほどしかなく「元々、自分の一族や村での生活に嫌気が差していた沙代が、水木に一目惚れして強く動かされたため」と解釈することもできますが、この段階での「私を連れて逃げて」は少々強引に感じられました。

なので、私はこの時点で「沙代にはこの村から急いで逃げなければならない積極的な理由があるのだろう」と解釈しました。それが「時麿殺し」であれば、理由としてもしっくりきます。この時点で私はだいぶ沙代への疑い(事件の犯人として、というよりも人間性)に対して疑いがだいぶ強まりました。少なくとも、完全に水木への好意や純真さだけで動いているわけではなく、かなりの部分は「村から逃げたい」という自身の利害で動いているのだろうと解釈していました。

水木は鬼太郎の父と妖怪のバトルシーンを「見ていない」

立入禁止の島に向かう鬼太郎の父を目撃した水木は、ねずみ男と思われる謎の少年に助けられ、小舟で島に向かいます。ところが、島に上陸すると頭痛に襲われ、途中で意識を失うことになります。私はこのシーンは非常に重要な描写だと思いました。

意識を失った水木は鬼太郎の父に助けられ、鬼太郎の父は凶暴化した島の妖怪たちと超常的なバトルを繰り広げた後、モーターボートのように加速した小舟に乗って岸まで対比します。かなり明確に妖怪や霊力を伴った映像表現が描写されたのは、劇中でこのあたりが最初でした。

私はこのシーンを見たときに「うみねこのなく頃に」のことを思い出していました。「うみねこのなく頃に」は「主人公がある島へ向かい、そこで何らかの事件が起こる。その後、島の住人は全員死亡する」というストーリーなのですが「島でどんな事件が起きたのかは諸説あり、様々な研究者が思い思いの説を発表している」という設定があります。そして、それぞれの説が劇中で視覚化・言語化され「◯◯編」といった名前をつけられて描かれる、という展開になっています。

島で起きる「事件」は一定のルールこそ守る必要はあるものの、それ以外は特に制限はなく、たとえば「魔術で人を殺した」と言った描写をすることも可能です。「うみねこのなく頃に」は、作品発表時のキャッチコピーが「この作品の推理は可能か、不可能か」といった読者に対して挑戦的なものであったために、そうした作品の仕組みが明らかにされた後は「このような作品構造では、推理は不可能である」として、一部のファンから批判を浴びることにもなりました。

私は「ゲゲゲの謎」も、この「うみねこのなく頃に」と同じ仕組みが取り入れられているのではないか、と解釈しています。

「うみねこのなく頃に」では「語り手である主人公が見ていないシーン=他の登場人物しかいないシーン」においては「魔法など、ミステリー的手法では禁じ手とされる演出を視覚的・言語的に描写しても良い」というルールがあります。

たとえば、主人公が気を失っていたり、別の場所にいるなどしたときに、別の登場人物が殺害されるとします。そのとき、殺害の様子を「魔女が魔法を使って殺害した」ように描いても問題ない、というふうにしているのです。

ミステリー好きならば誰でも知っているであろう、某有名推理小説のシリーズにも、それと似たような演出が登場します。探偵役とは別の、狂言回しのような役割の「語り手」が登場して話を進めていくのですが、その人が実は真犯人であり、犯行の様子など一部の重要な事実を読者に対して伏せている、というトリックが存在します。

こうした手法は「信頼できない語り手」と呼ばれ、小説や映画などの作品で度々登場します。

信頼できない語り手 – Wikipedia
ja.wikipedia.org

先に上げた例以外で有名なものとしては、映画「ジョーカー」や京極夏彦氏の「京極堂シリーズ」などが挙げられます。これらの作品では、語り手や一部の登場人物が病気や精神不安などで「読者とは違う形で現実が見えている」という点がストーリーで重要な意味を持ちます。

「ゲ謎」に存在する「演出上の見えないルール」とは

こうした観点で、私が「ゲ謎」の作品世界と非常に近いのではないかと考えたのが西尾維新氏の「物語シリーズ」です。岡田斗司夫氏が「物語シリーズ」を「読まずに」内容を予想した動画がわかりやすいため、ご紹介します。

阿良々木暦と彼が出会った少女たちの怪異にまつわる「怪異」にまつわる不思議な冒険・物語、って書いてある。
(中略)これひょっとして京極夏彦のいわゆる「京極堂シリーズ」じゃねえかと。
京極堂シリーズっていうのは、妖怪が毎回テーマになってるんですけども、もう全然妖怪が出てこないんですよ。
(中略)妖怪そのものは本当はいないんだけども、妖怪みたいな現象が起こってそれは人の心が作ったものだというあたりになるんじゃないかと。
https://www.youtube.com/watch?v=Km8-5Zdbcyk

「妖怪など、超常現象は実際には存在せず『人の心』が作り出したもの」
「しかし、存在しないとはいえ物語上の演出・視覚描写としては、その場にいる登場人物がそれら超常現象の存在を信じていれば、『あたかもそれが存在するかのように(視聴者に対しても)描写することができる」

「ゲ謎」の作品世界にはこのような演出上の見えないルールが存在していると私は思います。

特に京極夏彦氏は水木しげる氏と親交が深く「弟子」として認められていたとされます。京極氏の妖怪に対する捕らえ方は師匠である水木しげる氏のそれと近いものであったことが推察できます。

デザイナーでもある京極は、幼少時から筋金入りの水木ファンだった。折からの不景気で仕事が無かった時期に、京極は水木公認の支援団体・「関東水木会」に入会。その活動において、思いがけず水木の面識を得ることになった。一方、水木は京極の編集能力と妖怪についての深い洞察と作家としての力量に関心し、アシスタントにならないかと勧めるが、このときには既に京極は小説家として脚光を浴び、多忙になっていた。

https://dic.pixiv.net/a/%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E3%81%97%E3%81%92%E3%82%8B

「ゲ謎」の見方:超常現象をすべて排除して解釈する

「ゲ謎」に話を戻して、こうした「演出上の見えないルール」が本作でどのように使われたか、私の仮説を説明したいと思います。島でのバトルシーンに至るまでには、明確に科学では説明できない超常現象と呼べるようなシーンは出てきていませんでした。電車で鬼太郎の父と出会うシーンや、その際に水木の背後に現れた日本兵の亡霊なども「水木の気の所為や幻覚」と解釈することもできるからです。

島でのバトルシーンは映像演出も派手になっており、明らかにそうしたラインを超える描写がなされています。しかし、これらのシーンが描かれるタイミングで、水木は頭痛によって気絶しており、主人公である彼が、妖怪やそれと戦う鬼太郎の父の姿を見たわけではありません。

つまり、島での戦闘シーンはもうひとりの主人公であり「妖怪など不可思議な存在を信じる」という立場を持つ鬼太郎の父の視点によって描写されたものであると言えます。この鬼太郎の父の主観は、科学的な解釈では不自然であったり、到底実行不可能と思えるようなものであってもまったく問題はありません。彼はそれを「信じる」立場であるからです。

もし、水木があの場面で意識を失わずにいたとしたら、あのバトルシーンはもっと地味なものになっていたでしょう。あの時点での水木は妖怪は「ぼんやりとは見えるものの、まだ本気では信じていない状態」ですから、鬼太郎の父が独り相撲を取って暴れているように見えたかもしれません。

劇中のストーリーではこの後、水木は鬼太郎の父との信仰を深め、徐々に妖怪の存在を信じるようになります。そして「見えなかったもの」が見えるようになっていきました。しかし、視聴者の側は水木や鬼太郎の父と同じ解釈をする必要は必ずしもない、と私は考えました。

たとえば先程例に上げた「うみねこのなく頃に」では、「魔女が魔法によって行った殺人」についても、きちんと劇中の情報を整理すれば「何らかのトリックで人間が行った殺人」として解釈しても、問題がないように作られています。つまり「魔法などファンタジー的な手段がある」と解釈したい人はそのように、そうでない人は「科学的に推理可能な手段で行われた」と解釈することもできるというわけです。

私は「ゲ謎」もこれと同様に、妖怪の存在をすべて排除しても成立する物語である、と考えています。この解釈にたどり着いたときに、私は「ゲ謎」の作品としてのテーマ、制作陣が伝えたかったことが明確に「見える」ようになりました。この点に基づいて評価しなければ「ゲ謎」を本当に楽しんだとは言えない、と考えています。

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