【考察-4/4】「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」 – 映画のテーマと「鬼太郎」とはなにか?

「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」の考察もいよいよ本記事で最後となりました。ここまでの考察を踏まえて全体を振り返りつつ、考察をスタートした際の疑問であった「ゲ謎」のテーマとはなにか?について考えていきたいと思います。

振り返り:現代の問題を幻想を使って描く

私は本作を主張する中で、次のようなポイントに気がつきました。

  • 戦後まもない日本を描いているが、描きたいのは現代の日本の問題である
  • 妖怪など「目に見えないもの」を映像にしているが、実際はそれらを排除しても解釈可能である

これらを元に作品全体をもう一度振り返ってみましょう。

主人公・水木は戦中・戦後の人間ですが、実際にはむしろその内面は令和の現代人に近く「強者が身勝手に弱者を利用する世界」の中で、勝ち組を目指すものの、情は捨てきれない性格として描かれます。

翻って現代日本を見れば、高齢者医療を支えるために若年層が社会保障費の多くを支えるという社会構造が、現在進行中の問題として人々の注目を集めています。こうした「老人に搾取される若者」を象徴的に描くための方法として「昭和の家父長制によって犠牲になる若者」を用いたのが本作だと考えると、テーマがわかりやすくなります。

本作はまた京極夏彦氏の「京極堂シリーズ」や西尾維新氏「物語シリーズ」のように

「超常現象は人の心が作り出す」
「超常現象は存在しないが、その場にいる人全員が信じていれば『あたかも存在するかのように描写できる」

というルールが存在していると思います。

これら2点を前提に、本作のラストシーンがどのように解釈できるかを考えてみたいと思います。

振り返り:龍賀時貞と哭倉村の正体

私はまた、作品の黒幕でもある龍賀時貞、そして龍賀一族についても考え、以下のような回答を導き出しました。

  • 龍賀時貞は元々幽霊族であったが、仲間を裏切り己の利益のために血液を採る道具とした
  • 龍賀時貞はまた、裏鬼道の一員でもありリーダー的な立場にもいた

元々、製薬を生業としていた龍賀一族は幽霊族の中の一家、あるいは「幽霊族と混血した人間の一族」であったのではないかと推察しています。あるとき、その一族の中に龍賀時貞という人物が誕生しました。彼は薬学に通じるのみならず(あるいは、その研究の過程で)裏鬼道という呪術集団に属し、妖怪を操る外法を学びます。そしてその力を持って自身の同族であった幽霊族を捕らえ、彼らの血を資源として管理することによって「M」を作り出し、それを利用して莫大な利益を得た、というのが本作の背景ではないかと考えています。

哭倉村は、元々は幽霊族が隠れ住んでいた集落であったものを時貞が裏鬼道を使って乗っ取ったものではないでしょうか。そうなると、村人は全員程度の違いこそあれ、裏鬼道の関係者だということになります。

最初に時麿が亡くなった際、一部の村人が「哭倉様の祟りだ!」と叫んだものの、すぐに龍賀一族に気を使って口をつぐむ、というシーンが見受けられました。あれは哭倉様=元々村に住んでいた幽霊族を捕まえる際に、村人も協力していた(なので、恨みを買っているという伝承が残っている)ということを意味しているのではないかと思います。村人たちが単に「死人やその候補者を管理するために集められた人足」としての役割しかないのであれば「哭倉様のたたり」という発言は出てこないはずだからです。

私が別の記事で主張した「沙代が狂骨を操る描写は、彼女が裏鬼道・村人の一部に協力者を作り、彼らを手動して乙米、幻治らに反乱を起こしたことの暗喩である」との説も、この考えと親和します。幻治が主に指揮していた裏鬼道の連中だけでなく、村人の中にも同様の戦闘能力を保った者たちがいたとするなら、沙代の「反乱」はより実効性が高くなるからです。

水木しげるが「鬼太郎」に託した想い

少し視点を変えて、制作陣が本作にどんな想いを託したのかを想像してみることにしましょう。別の記事でご紹介してきたように、本作は最初から「鬼太郎誕生の秘密」をテーマとすることは決まっていました。鬼太郎がどのように誕生したのかは、原作者の水木しげる氏が「墓場鬼太郎」において描いており、その内容は本作のラストとも親和性がある、という点は、別の記事引用したDr.マクガイヤーの解説などにおいて指摘されているとおりです。

墓場鬼太郎においては、本作と同じ「水木」という名前の青年が幽霊族の夫婦を助けるものの、夫婦は死亡。その亡骸を墓に埋めてあげたところ、そこから這い出してきた赤ん坊が「鬼太郎」であった、という設定です。

水木しげる氏は「総員玉砕せよ!」で描かれたように、戦地で片腕を失う大怪我をしながら命からがら生還した帰還兵です。戦場では上官が無謀な命令で部下を死なせる「強者が弱者を踏みにじる場面」を何度も目にし、また先に戦場で死んでいった戦友たちの思いを背負って生きなければならないという「業」を課せられた人生を歩んでいます。そんな人が「墓場から蘇った妖怪の子ども」になにを託したのか。そこを掘り下げるのが本作のテーマだったのではないでしょうか。

戦場で心身ともに荒んだ水木しげる氏を癒やしたのは、原住民・トライ族との交流でした。

この交流は茂の命を救っただけでなく、傷ついた心も癒していった。自然と共に生き、精霊に親しむトライ族と、幼いころから自然を愛し、妖怪に親しんできた茂はウマが合ったのである。
特に当時少年だったトペトロは、生涯最大の友の一人となり、後年、彼が酋長となってからも友情は続いた。

https://dic.pixiv.net/a/%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E3%81%97%E3%81%92%E3%82%8B#h3_5

トライ族は幽霊族のモチーフの一つとなっているであろうことは、想像に固くありません。

水木しげるの社会批判的側面を鬼太郎にプラスしたのが「ゲ謎」

「ゲ謎」の主人公は、人間の「水木」と幽霊族の「鬼太郎の父」。これらは言うまでもなく原作者・水木しげる氏が自身の分身として設定したキャラクターたちをモチーフとしています。つまり、本作の主人公は「鬼太郎の原作者という意味での生みの親である水木しげる氏である」といって差し支えないはずです。つまり「水木しげる氏がなぜ鬼太郎というキャラクターを生み出したのか?」という観点を、ゲゲゲの鬼太郎ストーリーに載せて表現するという試みが取られたのではないか、というのが私の仮説です。

墓場鬼太郎には、ブラックユーモア的な「大人向け」の趣向こそあるものの、一義的には子供向けの漫画作品であることから「総員玉砕せよ!」に含まれたような戦争批判・社会批判的な側面は暗喩的に描かれるのみで、そこまではっきりとは表現されていないと思います。それを元によりポップに発展させた「ゲゲゲの鬼太郎」にしても、ますますそうした要素は抑えられることになりました。

本作は、そうした水木しげる氏が自身の戦場での体験によって背負い、鬼太郎というキャラクターに託した社会批判的側面を全面に押し出す形でリブートしたのではないかと思います。

経済的な成功だけが人生の目的ではない

具体的に例を上げて説明しましょう。水木は捕らえられた鬼太郎の父を助けるため、時貞に立ち向かいます。「会社を3つ4つくれてやろう。いい服を着て美女を召し抱えろ」と誘惑する時貞をはねつけ「ツケは払わないとなぁ!」と狂骨をコントロールする髑髏を破壊します。

これは水木が明治維新以来、現代に至っても是とされている「経済的に成功することこそ、人生の目的である」という既存の価値観に「ノー」を突きつけたシーンだと解釈できます。

ではなぜ元々野心的で、成功を夢見ていた彼がこうした考えに至ったのでしょうか。それは戦場で亡くなった戦友たちの霊に憑かれていることを意識しながら、鬼太郎の父と出会い「目に見えないものを畏れる心」の大切さを学んだからだと思います。

時貞は逆にこうした考えを最後まで持つことはできませんでした。自身の栄達のためには他人どころか、自身の家族まで犠牲にすることを厭わない独善的な「化け物」に成り果てていたのです。私が時貞自身も幽霊族であったはずだと考えるのは、こうした「家族を売ることを厭わない性格」があることも理由のひとつです。

しかし、皆がそうした独善的で他者を犠牲にする生き方を厭わないようになると、いずれは社会全体が「ツケを払う」ことになります。時貞は水木に「髑髏を破壊したら狂骨のコントロールが効かなくなり日本が滅ぶ」と言っていましたが、これは「龍賀一族が滅び『M』が作れなくなればそれに頼って成長してきた日本が立ち行かなくなる」ということの暗喩であるとも言えます。

水木はそうした言葉に臆することなく、髑髏を破壊することを選びました。

「変化を恐れない心」が現状を打破する

また、それよりも以前の、鬼太郎の父と二人で時弥に「今後の日本がどうなるか」を語るシーンでは、おためごかしのような理想論を語っていた水木でしたが「たとえ国が滅びようとも、強者が弱者を犠牲にするあり方は変えなくてはならない」という考えに至ったということです。

それに対して、同じ場面で鬼太郎の父が時弥に語っていた内容は「変化を恐れるな」というものでした。乙米や幻治、沙代に代表されるような龍賀一族や哭倉村の人々は「変化を恐れる人々」の代表です。彼らとて時貞のやり方に不満こそあるものの、その中で少なからず利益を享受してきていたことは確かです。変化を求めることで、これまでに積み上げてきたものを失うことになるかもしれない。そんな気持ちが最終的には旧来のあり方を結果的に認めることに繋がっていたわけです。

しかしそれでは、いつまで経っても現状は変わりません。現状を変えるためには「変化を恐れる心」を捨て去る必要があったのです。

「無限ループ」に陥った日本社会が未来に進むには

余談ながら、私は考察を進めている中で龍賀時貞の名前の元ネタになったであろう作品を発見しました。たがみよしひさ氏の「化石の記憶」という作品です。

この作品は、タイムトラベルを含んだSF的作品で「過去の出来事が未来を決定し、未来のある時点で再び過去に戻ることでひとつのループが完成する」というストーリーになっています。「歴史がループしているのなら、その中で人々が採りうる決断にはどんな意味があるのか?」を見る人に考えさせる作品となっています。

この作品の中の登場人物として「時谷貞光」という人物が出てきます。私はおそらくこの人物こそ「龍賀時貞」の元ネタではないか、と考えています。

時谷 貞光(ときたに さだみつ)
鎌倉時代に縞一帯を治めていたとされる豪族。宝玉“竜哭”を用いて雷を呼び雨を降らせたと伝承されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E7%9F%B3%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6

名前の漢字(時・貞)の一致もさることながら「竜哭」という道具を使うとされていることや「作品全体のテーマ=未来永劫変わらないループからの脱出」にも関連性が見られるのが大きな理由です。

「ゲ謎」が提示している大きなテーゼのひとつが「戦前・戦中から現代に至るまで、日本社会の問題点そのものはなにも変わっていない」というものです。それは「強者が弱者を利用する仕組み」であり「現状を変えることを恐れる心」でもあります。そこを転換して「無限ループ」から脱出しない限り明るい未来はありえない、と提示しているのが「ゲ謎」という作品ではないでしょうか。

次の世代のための自己犠牲の精神

時貞が狂骨に飲み込まれたあと、鬼太郎の父は怨霊たちを封じ込めるため、自身の体を依代にすると言い出します。妻とチャンチャンコを水木に託し、脱出するよう促しますが、水木はなぜ鬼太郎の父だけが犠牲にならなくてはいけないのか?と問い返します。それに対する鬼太郎の父の答えは「お前が生きる未来を見とうなった」というものでした。このシーンはなにを象徴しているのでしょうか。

歴史の流れの中では、誰かが犠牲にならなくてはならない場面が必ず出てきます。それは時貞がが他人を犠牲にしたような「虐げ」ではなく、誰か他者のために勇者が自ら犠牲になるものです。

Dr.マクガイヤーは「ゲ謎」をゴジラ -1.0と比較して「昭和時代の描写にリアルさが足りない」「戦争における加害的な側面が描けていない」という点で「ゴジラ -1.0は本作に劣る」と語っています。私はこの主張には完全には同意しかねるものの、「ゲ謎」がゴジラ -1.0に勝る要素があるとするなら、むしろこの「自己犠牲の理由」を明確に言語化しているところだと思います。

ゴジラ -1.0においては、せっかく戦争を生き延びた主人公と仲間たちが、勝てるかどうかもわからない怪獣との戦いに向かうに当たって「誰かが貧乏くじ引かなきゃなんねぇんだよ」と自らを奮い立たせる登場人物の台詞があります。しかし、それは「誰かが犠牲にならなくてはならない」という理由ではあっても「その犠牲が自分たちでなければならない理由」にはなっていません。(ゴジラ-1.0は特攻という自己犠牲を否定するテーマも入っているため、このような表現になったのだと思います)

「ゲ謎」では、自己犠牲の精神を発揮する鬼太郎の父が自ら、その理由を明確に語っています。ちなみに映画の中では「お前が生きる未来を見とうなった」ですが、映画のポスターでは「我が子が生きる未来を~」となっています。いずれにしても、次の世代・未来のために自らを犠牲にする、と語っているわけです。

翻って現代日本の問題である少子高齢化に目を落とすと、高齢者に対する社会保障費の支払いをなんとかしない限り、子育て・子作り支援など若い世代が生きやすくなるような世の中にしていくことができません。ブラック企業労働の問題や地方創生、ライドシェアの普及など、どういった種類の社会問題についても「次の世代のために誰かが自己犠牲の精神を発揮する」ということが解決策となる側面があります。本作はそうした問題提起をする側面が含まれていると私は感じました。

犠牲になった人々と「目に見えないもの」を信じる心

村人たちや孝三、克典ら生き残っていた人々が狂骨の犠牲となる中、水木は鬼太郎の母を連れて村を脱出することに成功します。一方、鬼太郎の父は狂骨の依代となったことで肉体が朽ち果ててしまいました。鬼太郎の母と、お腹の子を守るために水木は託されたチャンチャンコを使用します。結果的に母子は守られましたが、代償として水木は村での記憶の一切を失い、一夜にして白髪になってしまいました。理由がわからないまま悲しみの感情に襲われ、水木は涙を流します。

「多くの人々の犠牲は生じたものの、陰謀は阻止された」「しかし、そのことに誰も気がついていない」という状況は、物語のラストとしては物悲しい展開です。私はこのシーンは、日本が先の大戦で破れたことに対する暗喩ではないかと思います。

日本は先の大戦において、内外に多くの犠牲を払いながら最終的には敗戦、降伏を受け入れることになりました。しかし、その後はGHQによる占領(のあとは安保条約)のもとで復興を果たし、独立を回復することになります。

先の大戦そのものに対する評価は様々でしょうが、大勢の人々が亡くなったことは事実です。また、その中には水木しげる氏自身が体験し、「総員玉砕せよ!」で描いたような「強者が弱者を踏みにじった結果としての犠牲」が含まれていたこともまた、否定できません。

とはいえ、現代を生きる我々は、彼らの想いや存在を普段から意識しているでしょうか。常に意識している人もいれば「お盆になれば思い出す」という人もいるでしょう。あるいは、まったく思い出すことがない人もいるかも知れません。しかし、彼らの存在を完全に忘れてしまっていては「何らかのしっぺ返しが来る」という警鐘を鳴らし続けているのが「鬼太郎」というキャラクターではないかと思います。

水木しげる氏は、戦場で亡くなった戦友たちのことを絶えず意識していたであろうことは疑いようがありません。元々妖怪のような「目には見えないもの」を畏れる気持ちは持っていたのでしょうが、そこに「先に亡くなった人々」の想いが加わったのは、明らかに戦場での体験がきっかけになっているはずです。そうでなければ「墓場から蘇った幽霊族の子ども」を主人公にした作品を書くわけがないからです。

「墓場から蘇った幽霊族の子ども」は「次の世代のために犠牲になった人々の想いを受けた、目に見えないものを信じる気持ちを持つ子ども」と言い換えることもできます。この点にこそ鬼太郎が鬼太郎である所以、水木しげる氏の創造性が込められているポイントだ、といえるでしょう。

劇中で描かれた「ゲ謎」制作陣の水木しげる氏への誓い

ここまでの話をまとめると、

「ゲゲゲの鬼太郎」とは、水木しげる氏が自身の思想信条や戦場での体験に基づいて、
「目には見えないものを畏れる気持ち」と「先に亡くなった人々の想いを忘れない気持ち」を、
絶えず世の人々に訴えかけるキャラクターとして想像した。

と表現できます。

水木が記憶を失いながらも「悲しい」という感情だけは覚えているという点は「たとえ常に意識していなくても、時折思い出してほしい」という水木しげる氏の願いではないかと思います。

一方の現代では、鬼太郎と猫娘がさまよっていた時弥の霊を成仏させます。雑誌記者の山田はそれを見て「鬼太郎がなぜ人間を守るのか、その理由を後世に残したい」「そのためにこの村でなにがあったのか聞かせてほしい」と食い下がります。目玉の親父は山田の覚悟を認め「長い話になる」としながら、哭倉村での出来事を語り始める、というところで物語はエンドロールを迎えました。

時弥の霊が成仏できなかった理由は、自分がなんのために生まれてきたのか、無意味なまま一生を終えてしまうことに悔いがあったからでした。とはいえ、すで時弥は亡くなっているため、鬼太郎たちにはどうすることもできません。どうすればよいかと尋ねると、時弥は「忘れないで」とだけ応えます。

この回答は、水木しげる氏が鬼太郎の世界観を作り出すに当たって調べた全国の妖怪たち、そして戦場で先に命を散らしていった戦友たちから汲み取った願いではないかと思います。科学が発展しても「目には見えないもの」が完全になくなるわけではありませんが、妖怪など伝統的な存在は徐々に神秘的な色彩を奪われ、その存在が風化していくことになります。戦場で犠牲になった方々についても、時代が立つほど残された人々の記憶は風化され、失われていくことなるでしょう。

しかし、彼らがそこに存在した、生きたということを忘れさえしなければ、我々が龍賀時貞のように他人を顧みない「化け物」になってしまうことは防げるのかもしれません。目に見えないものを畏れる心が我々に他者を思いやる気持ちの大切さを思い出させてくれるはずだからです。

雑誌記者の山田の、覚悟を持った発言は「制作陣がこの映画を作るに当たっての意志表明」だと解釈できます。それを「鬼太郎の父」である目玉の親父に言うのは、鬼太郎の想像主たる「水木しげる」氏に対する宣言でしかありません。私にはあの台詞は「水木さんがなぜ鬼太郎を作ったのか、それを我々に映画として後世に残させてください」と言っているように感じられました。

劇中描写は「目玉の親父が記者・山田に語った内容」の映像化

目玉の親父が語りだす前にエンドロールに入っているため、本作の内容は「目玉の親父=鬼太郎の父の目線から見た70年前の哭倉村での事件」の顛末だと解釈できます。あくまで「鬼太郎の父の目線から見た」という点が重要です。

私が本作を「超常現象を省いた解釈でも説明可能」と判断したのは、この点があるからでもあります。幽霊族の生き残りでもある目玉の親父が語る内容なら、それは当然「超常的な現象を許容した内容」になるはずだからです。超常的な現象を省いた「客観的な真実」は、目玉の親父が語る話とは別にあるかもしれません。あくまで作品構造として、この映画全体をファンタジーとして描くために「目玉の親父が語った真実」という体裁を取りたかったものだと思います。

エンドロール中とその後の最後の描写として、記憶を失った水木が鬼太郎の父・母と再開するシーンも描かれます。彼らはともに衰弱しきっており、父は亡くなり(後に目玉だけで復活)、母は水木によって埋められるものの、墓の中から鬼太郎が這い出してくる、という流れで「墓場鬼太郎」につながります。

水木は記憶を失っているため、それがかつての友の子どもだとわかりません。そのため、生まれたばかりの鬼太郎を「化け物の子」と断じ、一度は殺そうと試みますが、直前で心変わりし親代わりとなって育てることになります。

「ゲゲゲの鬼太郎」の存在意義

世の中に新しいものが生まれたとき、人はそれが何故生まれたのか理由がわからず、自分に理解できないことそのものを理由として糾弾したり、迫害したりすることが多々あります。しかし、実際にはそうしたものも、過去の歴史の中で忘れ去られた別のものを「親」として生まれてきているのかもしれません。

水木は記憶が戻ったわけでもないのに、鬼太郎を殺すのをやめました。直感的に「目に見えないものへの畏れ」の感情からそうしたのでしょう。しかし、結果的に鬼太郎が生き残ったことによって、多くの人々が鬼太郎にによって救われることになりました。これもまた「目に見えないものを畏れること」「先になくなった人々を忘れないこと」から「新しい変化」が生まれ、それによって世の中が良い方向に代わっていくという、鬼太郎の存在意義そのものを表しているのかもしれません。

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