けものフレンズ12話感想その24:動物・ヒト・フレンズとは何だったのか

諸注意

けものフレンズ12話感想その23:フレンズたちの気持ちとかばんちゃんの黒い手足
すでに本編の各シーンは全て取り上げましたが、まだ考察していなかった点が2つほどあるので、今回はそれらを取り上げたいと思い...

「けものフレンズの謎」と題して、1話から12話までの各シーンを取り上げ、順番に考察してきたこのシリーズですが、いよいよ本編の考察もあと僅かとなりました。今回はけものフレンズ計12話のまとめとして、「この作品が伝えたかったメッセージとは一体何なのか」について考えてみたいと思います。

前回の記事では、「動物とヒト」という軸に注目して、けものフレンズのストーリーの軸を以下の3つにまとめました。

  • かばんちゃんがフレンズからヒトになる
  • 旅で出会ったフレンズたちが、かばんちゃんについていこうとする
  • かばんちゃんヒトからフレンズに戻りつつある

今回はこれらのポイントの背後にどのような主張が込められているのか掘り下げていきたいと思います。

けものフレンズという作品の大きな特徴は、「動物がヒト化した存在=フレンズ」が登場することです。従って、ストーリーの本質を見極めるためには以下の3つがストーリー上、どのように捉えられているのかを考えなければなりません。

  • 「動物」とは何か?
  • 「ヒト」とは何か?
  • 「フレンズ」とは何か?

「動物」とは何か?

動物の学術的な定義については、Wikipediaなどでいくつかの学説が紹介されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9#%E6%A6%82%E5%BF%B5

しかし、本作の中ではそれほど複雑に考える必要はありません。様々な捉え方があると思いますが、私ならけものフレンズ作中の動物を次のように表現します。

動物は自然界で暮らす生き物であり、持ちうる特徴によって様々な異なる種に分けられています。それぞれが己の長所を活かして暮らしており、「ヒト」もまた動物の一種です。従って、動物とは「異なる特徴を持つ複数の生物種」であるといえます。

「ヒト」とは何か?

けものフレンズのストーリーは、最初から最後まで「ヒトとは何か」という点がひとつの大きなテーマになっています。かばんちゃんはこの問いの答えを探して旅を続けていると言っても過言ではありません。

本作では、ヒトがどのような存在かを示すために、ほかの動物(フレンズ)との対比を用いています。「ヒトは長距離移動が得意だが、ほかの動物はそうではない」、「ヒトは道具を作り、使うことができるが、ほかの動物はそうではない」といった形で、ヒトの特徴を一つずつ定義していきました。

ですが、それだけでは「ヒトとは何か」を伝えるための要素としては不十分です。かばんちゃんは7話までのストーリーの中で、自分がヒトであるという事実=自分には、ヒトの特徴が備わっていることを知りました。しかし、それだけではかばんちゃんはヒトはどう暮らすべきか=自分がどのように生きるべきかを知ることはできなかったのです。

つまり、本作中においては、「ヒトには動物とは異なり、『生き様』がある」ということがしめされているわけです。かばんちゃんは旅の中で、2つのものを通じてヒトの生き様について学びました。ひとつは、パークに残るヒトの痕跡。もうひとつは、旅の中で出会った「フレンズたちの生き様」です。

「フレンズ」とは何か?

フレンズとは「動物がヒト化した存在」です。ちなみに、アニメ以前に作られたゲーム版けものフレンズにおいて、彼女たちは「アニマルガール」と呼ばれていました。単に「動物がヒト化した」という特徴に当てはめるだけならば、アニマルガールという呼び名のほうが適切なように見えます。ですから、私はこの事実を知ったとき、「なぜ呼び名をフレンズに変えたのだろう」とずっと疑問に思っていました。

ヒト化した動物の呼び名を「フレンズ」に変えたことに意味があるとするならば、けものからヒトへの外見的な変化だけでなく、内面的な変化も表す用語として「フレンズ」という言葉を選んだはずです。英単語のフレンズ(Friends)には、「友人・盟友」といった意味があります。もし、この単語と同じ意味がけものフレンズの用語にも込められているとするなら、「誰が誰の友人」なのか、という点が問題になります。

フレンズにはヒトのように「生き様」がある

ここでもう一度、本作における動物とヒトとは何かを思い出してみましょう。先に述べたように、本作における動物とは「異なる特徴を持つ複数の生物種」でした。そしてヒトは、「動物の一種であるが、生き様を持っているという点が異なる存在」として描かれています。

では、これらの点を踏まえた上で、「フレンズ」とは何かという問いの答えについて考えてみましょう。「ヒトとは何か?」に関する箇所で「かばんちゃんはヒトの痕跡と、フレンズの生き様から『ヒトの生き様』を学んだ」と説明しました。この考えが正しいとするなら、「動物には生き様がないが、フレンズには生き様がある」ということになります。そう考えると、フレンズという存在は内面的には「ヒトのように、動物が生き様を持ったもの」と表現できるはずです。

フレンズはお互いの生き様に影響を与え合う

かばんちゃんは旅の結果、己の生き様を見出すことができました。これらを動物とヒトを軸として解釈すると、「ヒトは動物と触れ合うことで、己の生き様が定まる」という意味になるはずです。実際に人類の歴史を振り返っても、ヒトは身体能力では勝てないほかの動物に対しても、道具や知恵を使って勝負することで生存競争に勝ち抜いて文明を築きました。これは「動物と自分(ヒト)の特徴を比較して、自分の得意なことを活かす道=生き様を見つけた」と解釈できます。

では、動物とフレンズの立場から見ると、ヒトはどのような存在として映るのでしょうか?すでに述べたように、動物は「生き様」をもたないため、そもそも「ヒトとはどういう存在か?」といった哲学的な疑問はもたないはずです。単に自分以外の他の動物と同じく「別種の動物のうちのひとつ」ととらえるだけでしょう。

しかし、フレンズはそうではありません。彼女たちはヒトと同じく「生き様」を持っているため、かばんちゃんがほかのフレンズの生き様から影響を受けたように、ヒトの生き様によって影響を受ける可能性を秘めています。劇中では、かばんちゃんのお陰であこがれの仕事につくことができた(本人談)マーゲイなどがいい例でしょう。作品中では、最終的にかばんちゃんと出会ったフレンズのほとんどが、程度の違いはあれど自身の生き様に影響を及ぼされています。

復活したかばんちゃんは「動物としてのヒト」の象徴

以上のようなことを前提とした上で、けものフレンズラストの展開が意味するところを解釈してみましょう。ポイントは以下の3つです。

  • かばんちゃんがフレンズからヒトになる
  • 旅で出会ったフレンズたちが、かばんちゃんについていこうとする
  • かばんちゃんヒトからフレンズに戻りつつある

かばんちゃんは旅の果てに「パークとフレンズを守る」という己の生き様を定めました。そして、サーバルやフレンズを守るためにセルリアンに食べられてしまったのです。けものフレンズを「かばんちゃんの物語」として見ると、「主人公が自分は何者なのか、どう生きるべきかを旅の中で学び、自分で選んだ生き様に殉じた物語」と解釈することができます。ですから、かばんちゃんというキャラクターの役割はここで終わりを告げたと過去の解説の中ではお伝えしています。

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しかし、実際にはこれは物語自体の終わりではありませんでした。フレンズたちの尽力により、かばんちゃんは助け出されたのです。ただし、セルリアンにサンドスターを奪われたことでフレンズから元動物である「ヒト」に戻ってしまっています。従って、この以降のシーンのかばんちゃんの扱いを見ていけば劇中における「ヒトとフレンズとの違い」がはっきりわかるはずです。

自然界を離れ、新しい世界へと旅立ったヒト

パーティーの後、かばんちゃんはフレンズと別れ、ひとり新天地に旅立とうとしています。このときのかばんちゃんは「動物の一種としてのヒト」の象徴だといえるため、このシーンは「ヒトが動物の世界(自然界)から出ていこうとしているシーン」だと解釈できます。現実に当てはめてみると、ヒトが科学技術を発展させて自然界とは別の「人間界」を作ったことを彷彿とさせます。かばんちゃんはひとりなので、社会を作ることはできませんが、パークの外にあるかもしれない「人間界」へあこがれる様子は劇中でも確認できます。

ヒトの影響で生き様を変えたフレンズたち

続いての問題は、かばんちゃんの後をフレンズたちがついていこうとしたことです。これはどう解釈できるでしょうか?現実の世界では、ヒトが人間界を作った後も、ペットや家畜として一部の動物がその中に取り込まれています。彼らはフレンズではなく動物であり、必ずしも自らの意志で人間について言ったわけではなく、人間にそうなるよう仕向けられたものもいます。では、現実にフレンズ=ヒト化した動物が存在していたとしたら、彼女たちはどんな行動を取るでしょうか?その問いに対する答えがこのシーンで示されているのではないか、と私は思います。

つまり、「もしヒトと動物がコミュニケーションできたなら、互いに影響を与え合い、場合によってお互いの生き様さえ変えてしまうかも知れない」ということが示されたのではないでしょうか。劇中のフレンズたちは、かばんちゃんという個人に対する親しみから「パークを離れ、かばんちゃんについていく」という生き様の変更を選んだわけです。

ヒトとフレンズは望みさえすれば友達になれる

ここで「フレンズとは誰の『友人』なのか?」という疑問について再び考えてみましょう。物語全体が「ヒトとそれ以外の動物」という軸で展開している以上、動物のフレンズたちは「ヒト(かばんちゃん)の友人」であると解釈できます。逆に、ヒト(かばんちゃん)は「動物の友人」であると考えていいでしょう。

これらを前提として、最後に「かばんちゃんが再びフレンズに戻りつつある」という描写がある意味を考えてみましょう。「動物としてのヒト」は、自然界を離れ人間界を作るという生き様を選びました。しかし、それはヒトが完全に自然界から離れたことを意味するわけではありません。動物は別段ヒトを特別視することなく「動物の一種」=自然界の一部だと捉えているはずだからです。もしヒトが彼らに対して友好的に接しさえすれば、「友達」になることも不可能ではありません。

では、ヒトは動物をどう捉えているでしょうか?自然界を離れて人間界を作って以来、ヒトは意識的・無意識的に関わらず、ヒトと動物を明確に区別する機会が多くなりました。その事態の是非はここではあえて問題にはしません。劇中でも、かばんちゃんは自分がパークの外に島を見つけたことを最後までフレンズたちには語りませんでした。また、「危険だから」という理由でパークの外にフレンズたちを連れて行くのも断っています。これは「ヒトは自身と動物を区別することもある」ということを象徴するシーンだと私は思います。

しかし、最終的にかばんちゃんは自分を慕ってついてきてくれたフレンズたちと一緒にパークの外へ向かうことを選びました。そして、そんな彼女の体は手足の衣服の再生が進み、「動物としてのヒト」から「動物の友達=フレンズ」へと変化が加速している様子が見て取れます。かばんちゃんに起きた肉体的な変化は、彼女の気持ちの変化を象徴するものだった解釈できるわけです。

「ヒトは元々、動物の一種であった。その後、別々の世界で暮らすようになったものの、お互いに望みさえすれば友達になり、一緒に旅をすることもできる」

けものフレンズが伝えたかったのは、そうしたメッセージではないでしょうか?

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