機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)考察-第十二話「だから僕は…」

機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)考察-第十二話「だから僕は…」の考察です。

第十一話の感想はこちら

機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)考察-第十一話「アルファ殺したち」
機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)考察-第十一話「アルファ殺したち」の考察です。 ※第十一話放送終了後~第十二...

物語はクライマックスへ

シュウジは「向こう側のララァ」が作ったこの世界を終わらせるために、向こう側からやってきたという事実が、前回のラストで明かされました。

イオマグヌッソ内部で高まるゼクノヴァ反応に、ラシットはコモリに「なにか感じるか」と尋ねます。コモリは「そんなに都合の良いものではない」と返しますが、これは明らかに機動戦士ガンダム第四十二話「宇宙要塞ア・バオア・クー」にて、作戦前にアムロが「この作戦は成功する」と保証し、後でこっそりと「あれは嘘。ニュータイプになって未来のことがわかれば苦労はしない」と答えたシーンのオマージュでしょう。

戦いを続けるエグザべは「キシリアを亡き者にしたらさらに混乱が広がる」と抵抗。対するシャリアは「独裁の元ではヒトの革新など起こるはずもない」とこちらも考えを曲げません。ここでシャリアは「彼もそう言っていた」と語りますが、それはシャアのことでしょう。

現れた「本物のガンダム」

「向こう側からきたものは、向こう側へ返ってもらう」

そう語るシャアが乗る赤いガンダムのアルファサイコミュと、イオマグヌッソが反応。仕様書にも書かれてない真の機能=向こう側へのゲートを開くための形態が明らかになりました。シュウジは「向こう側へのゲートが開いたということは、向こう側からも来れるということ」と、RX-78-2 ガンダムを呼び寄せ、それに登場します。その登場をコモリが感じ取るシーンは、第一話でシャリアが赤いガンダムがそばにいることを感じ取ったシーンのオマージュになっています。

「本物のガンダムが現れてしまった。もう後戻りはできない。薔薇の少女を殺して、この世界を終わりにする。ガンダムがそう言っている」と、シュウジはガンダムに登場。シャロンの薔薇を破壊するために動き始めました。

ついに語られる向こう側の戦い

マチュはキラキラの中でシュウジと対話。なぜララァを殺そうとしているのか問いただします。2人は、向こう側のララァの記憶が再現された、向こう側でのガンダムとシャロンの薔薇(エルメス)の戦いを目にします。

ここで視点が切り替わり、視聴者は向こう側での戦いを直接目撃します。向こう側では、シャアは赤いゲルググに登場しています。ジークアクス世界におけるゲルググ=ジオンに鹵獲されたガンダムのマスプロモデルではない、ファーストガンダムに登場した本物のシャア専用ゲルググです。

シャアはガンダムとエルメスの戦いに割って入り、そのまま戦いは進行。ちょうど機動戦士ガンダム第四十一話「光る宇宙」での戦闘をそのまま再現します。向こう側のララァの声優は潘恵子、ガンダムに登場するパイロットは最後まで描かれることはありませんでした。もう一人、Gファイターに登場するセイラもシルエットのみが描かれます。コアブースターではなく、Gファイターであることから、向こう側の世界はTV版に近い世界であることがわかります。

戦いは進み、ガンダムのビームサーベルに貫かれてゲルググは爆散。シャアが死亡したショックでララァが絶望、絶叫する様子で幕を閉じます。ファーストガンダムではララァはシャアをかばい、エルメスがガンダムに撃破されることになるので、向こう側の世界はファーストガンダムとは似て非なる世界であることもわかります。これは第九話「シャロンの薔薇」で、こちら側のララァのセリフからも推測できることです。

再び場面はマチュとシュウジのキラキラに戻り「このときの彼女の絶望の波動が引き金となり、エルメスのサイコミュがもう一つの別の宇宙を作ってしまった」という事情が、シュウジの口から語られました。

シュウジの願いは「向こう側のララァ」を傷つけないこと

向こう側のララァが願っていたのは「シャアが殺されることのない世界」でした。このララァが作った宇宙は、ひとつだけではなく複数存在していることが第九話のこちら側のララァのセリフから判明しています。シュウジもまた「どの宇宙でもシャアは白いガンダムに殺されてしまう」と、複数の宇宙があることを示唆しています。背景にはグフ、ヅダ、ビグロ、ビグ・ザム、ガルバルディα、山下いくとデザインのサザビーなど、様々な「シャア専用機」と思われる機体のイメージが描かれますが、いずれの宇宙でもシャアを生き残らせることはできなかったのでしょう。

シュウジの説明によれば「自分が作った宇宙で、シャアが白いガンダムに殺されるたびにララァは深く絶望。その絶望が彼女が作った宇宙を歪め、崩壊させる原因になっている」ということです。そうした繰り返しの果てにたどり着いたのが「この世界=ジークアクスの宇宙」であり、シャアを殺さないための方法として選ばれたのが「シャアがガンダムに乗る」というものでした。

結果、この世界のララァはシャアには出会えなくなってしまいますが、向こう側のララァにとってはそれも覚悟の上。しかし、他ならぬシャア自身が「向こう側のララァによって歪められたこの世界を否定する」という行動に出てきました。「それはララァには耐え難いこと」と考えたシュウジは、彼女が目覚める前に彼女自身を殺すことを決意します。

示された2つの選択肢

ここで状況を整理してみましょう。今、3パターンの展開が示されています。

(1)ララァの目的:シャアを生かすためにこちら側の世界を作った。
(2)シャアの目的:向こう側のララァをゲートで向こう側へ送り返そうとしている。
(3)シュウジの目的:向こう側のララァが絶望すると、こちら側・向こう側両方が崩壊してしまうため、その前に彼女を殺す。

(1)を受けて今、(2)(3)が新たな選択肢として提示されているわけですが、(2)シャアの目的を達成してララァを向こう側へ送り返した場合、残ったこちら側の世界がどうなるのかはまったくわかりません。最も、シャアもゼクノヴァを体験して刻を見ているので、ララァを向こう側へ送り返したとしてもこの世界は保たれるという確証があるのかもしれません。

一方、シュウジは「こちら側の世界が滅びるのは仕方ないが、ララァが絶望すると向こう側の世界も崩壊してしまうので、その前に殺すしかない」と考えています。ララァが絶望するとなぜ向こう側の世界まで崩壊してしまうのかについては、もう少し後で考えてみましょう。

一方、シュウジは「こちら側の世界が滅びるのは仕方ないが、ララァが絶望すると向こう側の世界も崩壊してしまうので、その前に殺すしかない」と考えています。ララァが絶望するとなぜ向こう側の世界まで崩壊してしまうのかについては、もう少し後で考えてみましょう。

「向こう側」の世界の正体とは?

シュウジの会話からは2つの謎が残ります。1つ目は、

「なぜこちら側の世界でララァが絶望すると、向こう側の世界も崩壊するのか」

という点です。たしかに、こちら側の世界は「シャアが生き残る数少ない可能性」を満たす世界ではあります。その世界でシャアが「ララァによって生かされることを拒否する」としたら、それはララァにとって強いショックであろうとは間違いありません。しかし「ララァが絶望したら、向こう側の世界を巻き込んでこちら側も崩壊する」という点は一見理由がわかりません。ひとりの人間が死んでも、通常はその宇宙は崩壊しないからです。

「向こう側」の世界もまた、「こちら側」と同じヴァーチャルな世界だと考えたらどうでしょうか。

向こう側=ララァの脳内世界
こちら側=向こう側のララァの願いとエルメスのサイコミュによって作られた世界

という構造になっているのではないか、という意味です。

「向こう側」のさらに先の世界

さらに「向こう側」の先には「向こう側のララァが本来生きている世界」が存在していることになります。そこがどのような世界なのかは、これ以上の手がかりが示されていないので確定させることはできません。

「向こう側」の先の世界を「ファーストガンダムの世界に似ているが、シャアがガンダムに殺された世界」だと推測するのは一番シンプルな方法です。あるいは「クリエイターの世界」と想像してみるのも面白いかもしれません。脚本家のララァが「シャアが生き残るシナリオ」を何本も書くものの、監督であるシュウジがOKを出さないため、何度もやり直している、と捉えることもできます。

このように捉えると「ララァが願った世界を消滅させると、また彼女は新しい世界の夢を見始める」という2つ目の謎とも整合します。「向こう側の先の世界に実在するララァが、『全体』とつながったまま無限にシャアが生き残る世界のシミュレーションを繰り返している」と捉えることもできますし、「クリエイターが『シャアが生き残るシナリオ』を検討し続けている」と解釈することもできます。

刻とは、この世界の歴史が保存されたアカシックレコードのようなものである。

ララァ・スンシャア・アズナブルなど、死ぬ間際に「刻が見える」という台詞は印象深い。

『不死鳥狩り』によれば、高次元にある全体にとって刻は千年、万年、億年の時間が積層されようと、それを並列して見渡せるのだという。

https://dic.pixiv.net/a/%E5%85%A8%E4%BD%93%28%E5%AE%87%E5%AE%99%E4%B8%96%E7%B4%80%29

第十一話の考察でご説明したように、私は十一話以降は、メタフィクション的な解釈を含まない限り正しく理解することはできないと考えています。この「向こう側(の先)」についても、作中でこれ以上情報がないため、想像するしかない領域ではありますが、考えることで様々な可能性も広がります。

キシリアが抱えるシャアへの複雑な想い

ここで、シャアが赤いガンダムで2人のキラキラの中に乱入しようとします。これが実現されていたとしたら、光る宇宙と同じような展開が再現されたかもしれませんが、キシリアが登場するパープルウィドウからの砲撃で妨害されることになります。

キシリアは、己の過去を振り返ってシャアに対する複雑な感情の背景を思い出していました。若いころ、幼いシャア=キャスバルとアルテイシアの兄妹を見て「このような愛らしい子が持てるのなら、母親になるのも悪くない」と思った記憶です。これは小説版での設定が元になっているものです。

また、自身の赤毛に重いコンプレックスを抱えており、幼い日のキャスバルとアルテイシアを見て、その美しい金髪の容姿に憧れ「なんとしても金髪の男性と結婚してあんな子供たちを産みたい」と理想の家庭を持つことを夢見た時期があるなど、その根本は女性らしく、家庭的な面のある人物として描かれている。

https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%93

キシリアはなぜ「新しい時代」を作ろうとしたか?

このキシリアの原体験は、いくつかのレイヤーで見ることができます。まずは単純に、言葉通りの意味として捉える見方です。キシリアも若かったので、自身の赤毛へのコンプレックスと、それと相反するシャアの金髪への憧れ、子どもを持ち、母親となることへの想いなどが込められていると考えるものです。

次に、赤毛や金髪はなにかのメタファーであると考えることもできます。キシリアの「クセの強い赤毛」とは、政治闘争の中で生き残らなければならない生き様が宿命付けられている「ザビ家の血」のことであり、本当は彼女はそうした生き方をしたくはなかったこと。しかし、その政争の果てに、それとは違う「柔らかな金髪の子ども」=ヒトを革新したニュータイプの世の中となり、自身がその生みの親になれるのなら、やる意味はあると考えたのではないかなど、いろいろな想像ができます。

彼女が兄ギレンに異常な対抗意識を燃やしたことや、生き残るために手段を選ばぬ非情さを持っていること、そんな中でシャアや、彼との縁で出会ったニャアンに見せた特別な態度などは、こうした原体験が元になっていると思われます。

シャアとキシリアは似た者同士

キシリアを追って、シャリアのキケロガも駆けつけますが、RX-78-2 ガンダムの姿を見て「良いしれぬ恐怖」を感じます。「いつかどこかで、あのMSに自分が撃たれたことがある」ということを、直感で感じ取っていました。キシリアも同じく「ジオンが敗れた世界がある」という事実を感じ取ります。

急にゼクノヴァやニュータイプに対する理解・認識が増大したコモリのように、シャリアやキシリアもRX-78-2 ガンダムという「向こう側から来た、ゼクノヴァそのもののMS」を見たことで、向こう側での自分たちの記憶や体験を感じ取る、という描写が描かれています。

おそらく、シュウジもララァによる繰り返しの中で、いずれかの段階でこうした気づきを得たのだと思います。ちょうど、仏教において輪廻転生から解脱し、涅槃(ニルヴァーナ)を目指す過程ような体験でしょう。

輪廻(りんね[1])または輪廻転生(りんねてんしょう[2][3])とは、サンスクリット語のサンサーラ(संसार Saṃsāra[4][5])に由来する用語で、命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わること[1]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである[26]。このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある[27]。この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので[注 5]、意識が断絶することはない[注 6]。また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている[26]。それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと[8][9]。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる[8][注釈 1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83

後方から迫るキケロガの攻撃をかろうじて回避したパープルウィドウですが、進路上にはサイド6の軍艦が障害物として立ちはだかりました。障害物を排除すべく、砲撃で撃沈したところ、随伴していたザクが持っていたバズーカを拾ったのは、赤いガンダムでした。

「あなたは良い上官だった。これからはギレン総帥と仲良く」と、敬礼した赤いガンダムはバズーカを発射。ファーストガンダムと同じく、キシリアは「シャアが放ったバズーカで倒される」という流れを繰り返すことになります。

シャアとキシリアは、どちらも考え方や目的が似た者同士です。どちらも「ニュータイプの新しい時代」を志しながら、それを達成するための方法として「障害をすべて排除する」という極端な道を選ぶことしかできませんでした。ダイクン家とザビ家、立ち位置は異なりますがどちらも「生き残ること」が至上の命題だった生まれが、そういった生き方を身に着けさせてしまったのでしょう。

ファーストガンダムでは「ガルマ、姉上と仲良く」と語っていたシャアですが、今回は未登場のガルマには触れずに、ギレンの名前を挙げていました。兄と妹という関係性は、シャアとセイラ(アルテイシア)とも共通するものであり、彼もまたキシリアに対しては単純な憎しみだけでない複雑な感情があったものと考えられます。

もう一人、「生き残ること」を至上の命題として戦ってきたキャラクターにニャアンがいます。キシリアの死を感じ取った彼女は「料理を食べてほしかった」と、変わらぬ感情を吐露しますが「もうどこにもいくところがない」と塞ぎ込んでいます。

ニャアンがずっと心のなかで求めていたこと

「ララァを守るため」と語るシュウジの言葉を、マチュは否定します。自分がジークアクスに乗るきっかけとなった、スマホへのメッセージを「ララァから送られたもの」と感じ取ったマチュは「ララァはそんなことを望んでいない」と考え、シュウジを止めるために彼に戦いを挑むのでした。

2人の戦いを感じ取ったニャアンは、戦場に乱入。マチュとキラキラで感応を起こします。マチュは自分がシュウジを止めるために戦っていること、それは「3人で地球の海に行く」というかつての約束を果たすためであることを伝えます。

マチュはニャアンに「自分と一緒に戦ってほしい」と提案しますが、これはかつてイズマコロニーからの脱出時に彼女に協力を依頼したとき以来の頼みごとです。ニャアンはその時のことを思い出し「マチュやシュウジを見捨てて逃げた」という点に負い目を感じますが、マチュはそれを「ニャアンはひとりで生き抜いてきたということ」だと肯定。「一緒に戦って」とニャアンの手を取ります。

これこそ、ニャアンがキシリアのもとでどれほど可愛がられてもついに得ることができなかったものです。キシリアが求めていたのは、他者を犠牲にしても生き残る「強いニャアン」だけです。しかしそれは「他人を犠牲にしてもいいのか?」という「正しさ」の問題を置き去りにするものでした。キシリアは「ニュータイプに正しさなどいらぬ。ただ強くあれば良い」と肯定していましたが、それはニャアンが求めていた答えではありませんでした。

ニャアンはマチュとシュウジ、3人でいたときのように「弱い自分」を受け入れ、その上で必要としてくれる人と一緒に生きていきたい、という願望をずっと抱き続けていたのでしょう。マチュの「マヴになろう」という言葉は、彼女にとって「もうひとりで生きなくていい。2人で生きていこう」という、最もかけてほしかった言葉だったと思います。

シャリアがシャアを探していた本当の理由

ジークアクスとジフレド、2機は連携してシュウジのガンダムと戦いますが、そこでシャリア・ブルはついに、シャアと再会を果たします。シャアはシャロンの薔薇によって自分が生かされていること、そんな歪な世界を正すためにララァを向こう側へ送り返そうとしていることを話します。

しかし、この言葉を聞いたシャリアは態度を一変。突如としてシャアに攻撃を仕掛けました。シャアの態度は、彼の生き方・スタンスが現れています。彼は「目的のために障害を排除する」という形によってしか目的を達成できない男です。

シャリアは1年戦争の際、シャアから同士に誘われたとき「戦争に勝ってその後は?」と質問しています。このときのシャアの回答は「人の心を覗きすぎるのは良くない」というものでした。シャリアは後に「シャアは(空っぽな)自分と似ている」とマチュに話していますので、このときにシャアが「障害=ザビ家を排除したあとのことは何も考えていない」と理解していたのでしょう。

そのような人間が「ニュータイプの新しい時代」をリードしていくのは極めて危険です。目的が達成されなければ、次の「障害」を見つけて、新たな戦いの火種を生んでいくことが容易に想像できるからです。シャリアはそうした展開を予想して、シャアの代わりにアルテイシアを擁立する準備を整え、シャアが再び姿を表したときには排除する意思を固めていたのでしょう。

ここまでのニュータイプたちの活躍は、従来の宇宙世紀で描かれてきたものとなんら変わりはありません。キラキラで感応し、お互いに誤解なく理解し合えたところで、結局目的の違いから戦うことしかできない、というだけでは、ニュータイプに対して新しい価値を見出したとは言えません。

戦いを眺めていたラシットやタンギらソドンクルーも、そうした悲哀を感じ取っていました。

マチュはジークアクスに意思があることを感じていた

ジークアクス・ジフレドとRX-78-2 ガンダム、キケロガと赤いガンダムの戦いは激しさを増していきます。シュウジの意思に反応するかのように、突如としてRX-78-2 ガンダムは巨大化。カラーリングも目だけが赤く、ほかは真っ白な原案カラーに近いものに変貌を遂げました。実際に質量の増大が確認でき、眼の前のガンダムが物理的に大きくなっていることがわかります。

こちら側の宇宙は「ララァの意思に感応したエルメスのサイコミュが作った世界」だとされていますので、向こう側からやってきたRX-78-2が巨大化できたとしても不思議はありません。

質量が大きくなりすぎたせいか、ビームライフルやエスビットによる攻撃は通用せず、ジフレドは握りつぶされてしまいます。ニャアンはかろうじてコア・ファイターで脱出しました。

シャアにキケロガの本体を破壊され、頭部ユニットのみとなったシャリアは「ひとりでは無理だ」とマチュに逃げるよう伝えますが、マチュは覚醒したオメガサイコミュのユニットでRX-78-2の攻撃からシャロンの薔薇を守ります。

「ひとりじゃない、ジークアクスはいつも私の味方だった」

そういうマチュの言葉に呼応するかのように、オメガサイコミュの操縦桿はマチュの手を握りしめ、ジークアクスの口が開き、発光するユニットがあらわになりました。

マチュはジークアクスとともに、最後の戦いを挑みます。

「本物のニュータイプ」とはなにか?

最後の戦いでは、シャリアの口からマチュこそが「本物のニュータイプ」であるとする言葉が語られます。

「あなたはサイド6の事件で故郷を追われることになっても、なんの後悔もしていなかった」
「あの拳銃は、自分のために戦い続けてきたあなたにこそふさわしい」
「きっと、自由のために傷つくものこそが本物のニュータイプなのだから」

そう語るシャリアもまた、頭部からのビームで赤いガンダムの頭部と左腕を破壊。返す刀でキケロガもついに戦闘能力を失い、相打ちとなります。

シャリアが語るニュータイプ像は、マチュの本質に迫るとともに、ジークアクスで語られる「ニュータイプとはなにか」というテーマを掘り下げるものでもあります。

まず、マチュが「サイド6の事件で故郷を追われることになっても後悔していなかった」という点ですが、これは事実です。マチュはすぐに地球やシャロンの薔薇など、シュウジにつながる手がかりに目を向けていました。

「この拳銃はあなたにこそふさわしい」という言葉はどうでしょうか。拳銃は、シャリアが崇高な使命や責任を他者から与えられ、それを果たすために向かった木星に持っていったものです。このときのシャリアは「他人から与えられた目的」のために行動しようとしており、それが果たせないとわかったときに「空っぽ」になってしまったと語られています。

それに対してマチュは、終始「自分のため」に行動しています。その点をシャリアは「ふさわしい」と評しているわけです。

マチュの目的はあくまで「自分の自由のため」

最後の「自由のために傷つくもの=本物のニュータイプ」という点について考えてみます。これはマチュのことを指しているのはもちろん「向こう側のララァ」をも指す言葉です。マチュは自分が「自由」になるために戦い、傷ついてきました。それは当初は「自分の自由のため」という目的でしたが、途中から徐々に他者にその目線が向けられるようになっていき、最終的には「向こう側のララァやシュウジを救いたい」という目的に変わっていきました。これこそ彼女の成長を示すものでしょう。

実は、こうした成長は唐突なものではありません。マチュがそもそもジークアクスに乗ったのは「ニャアンら虐げられる難民」の姿を見て、彼らを助けたいと考えたからでした。元々マチュは自分・他人を問わず「自由のために傷つくことを厭わない意思」が内面にあったわけです。だからこそストーリーが進むにつれて徐々に彼女の「自由を得るための行動」は利己的なものから利他的なものへと比重を移していったのです。

そしてそのことは、第一話の時点でのアンキーとの掛け合いでも表されています。

マチュの「宇宙って自由ですか」という問い掛けに、アンキーは「ジオンが戦争に勝ってもスペースノイドは自由になれない。いつまで経っても苦しいままだ」と応えました。

これは「(自分個人が)宇宙へ行けば自由になれるか」という問いかけに対して「自分が自由になるだけでは本当の自由は得られない。他者を自由にすることで、初めて本当の自由が得られる」という回答になっています。マチュはこの「自分が自由になるために、周りの他者を自由にする」という命題に対して、ジークアクスのストーリーを通じて取り組んだわけです。

マチュは「軍警に虐げられる難民を救うため」にジークアクスに乗りました。その後、クランバトルに参加したのは自分のため(キラキラを体験したいから)でもあり、同時にシュウジやニャアンのためでもありました。クランバトルが2人一組(=常に自分と他人がいる状況)であるのも、自分の自由と他人の自由を同時に達成しなければならない、という命題が投影されているからかもしれません。それはサイド6を追われる第七話まで続きます。

シャロンの薔薇を探して地球に行ったのは「シュウジに会いたい」という自分の目的のためでしたが、そこでララァに出会うと彼女を自由にしようと行動しています。シャロンの薔薇を回収して、今日を迎えてからは一貫して「向こう側のララァ」を自由にするために戦っています。

根本的な話として「向こう側のララァ」を開放したとしてもマチュ個人にはなんのメリットもありません。ララァ本人、そしてシュウジのためにそうした行動を取ろうと、完全に「利己から利他へ」の目的のシフトが完了しているわけです。

ただし、あくまでマチュ本人の自覚としては「シュウジに会いたい」という根本的な行動理念は変わっていないはずです。利他的な行動を取るのは、あくまで自分が自由を得るための過程で必要であるからであって、マチュ本人の意識としては「世のため人のため」と思って行動しているわけではないので、その点を指してシャリアは「自分の自由のために傷ついているマチュこそが、真のニュータイプである」と断じているわけです。

通常「利己的に行動する」というと「自分勝手・自己中心的」というふうに、ネガティブな文脈で捉えられてしまいがちです。しかし、この「自分の自由のために」というマチュの行動原理を完全に肯定しているのがジークアクスという作品のユニークなところです。

シュウジの本当の気持ちをマチュが開放する

マチュは「向こう側のララァ」もまた自分と同じように「自分自身が自由になるため」にこちら側の世界を作ったと考えているのでしょう。だからこそ、シュウジの行動は彼女の望みと異なっていることも理解し、彼を止めようとしました。

マチュはキラキラの中で、シュウジと最後の言葉を交わします。

「僕はララァの想いを守りたい。いつか彼女が願った世界を本物にしてあげたいんだ。だから僕は・・・」

ここで、最終話のタイトルである「だから僕は」の文言も回収されました。

これはシュウジの願いを表す言葉でもあったわけです。これまでシュウジは基本的に「~~とガンダムが言っている」と、自分の主体的な意思を示すことなく「ガンダムが言っていることに従っている」というスタンスを保ち続けて来ていました。「だから僕は・・・」というセリフには、彼がこの状況を脱し、変わりつつある意思が込められています。ガンダムのせいにしてきた自分の行動を、自分自身を主語にして言い換えようとし始めているからです。

マチュはこうしたシュウジの特徴をいち早く見抜いていました。第四話の時点で「地球に行きたい」というシュウジの目的を「ガンダムがそう言っているわけではなく、シュウジ自身が行きたいのだ」と理解していたからです。

シュウジも「ララァ以外の誰か」を求めていた

マチュは、窮屈に生きてきた自分がシュウジと出会ったことで「キラキラした自由な世界がある」ことを教えられたこと、そんなシュウジに「自分の心を縛らないで」と指摘。シュウジが考えるのを避けてきた「ララァのことが好き」という気持ちを自覚させます。

マチュはシュウジの本当の気持ちを、彼が描いたグラフィティから感じ取っていたのでした。シュウジがなぜキラキラのグラフィティを描いていたのか、その理由は最後まで明確には語られませんでした。おそらくは自分と同じようにニュータイプ能力を持つものを探すために、ニュータイプにのみ通じるメッセージとして描いていたのでしょうが、それ自体、彼自身も無自覚だったのかもしれません。

おそらくシュウジがララァに固執していたのも「キラキラを通じてわかりあえた特別な相手」だったからではないでしょうか。そう考えると、ちょうどマチュが同じ理由でシュウジに固執していたことも重なるので、マチュがシュウジの真意=ララァが好きなことに気づけた理由にも納得できます。

しかし、だとしたらシュウジに必要なのは必ずしもララァではないとも言えます。ニャアンを例に出すと、彼女は自身を受け入れてくれる人の候補として、マチュ・シュウジ・キシリアに出会ってきましたが、最終的にはマチュに受け入れてもらえました。

シュウジも同じように、ララァに固執しなくても、自分を受け入れてくれる別の誰かが居てくれればよかったわけです。無意識にそういう相手を探そうという意思が現れていたのが、あのグラフィティづくりだったのではないでしょうか。

ジークアクスの言葉が、シュウジやララァの救いになる理由

マチュに自身の真意を指摘されたシュウジの心は揺れ動いており「でもララァを守るにはこうするしかないと、ガンダムが言っている」と語りますが、そんな彼にマチュの背後からジークアクスが語りかけました。

「僕はもう見たくない。ガンダムがララァを殺す光景を」

このシーンは何を意味しているのでしょうか。

シュウジは、マチュの言葉で自分の真意には気づけたものの「ララァを救うために他の方法は見つからない。だからこそララァを殺すしかない」と、行動を変えるまでには至りませんでした。

これに対するジークアクス(エンデュミオンユニット)の言葉は、一見答えになっていません。なのでその真意を読み解く必要があります。まず、ジークアクスは「ガンダムがララァを殺す」と語っていますが、これは「向こう側」の世界の歴史と矛盾します。つまり「ガンダムがシャアを殺す世界」と「ガンダムがララァを殺す世界」がそれぞれ存在する、ということです。

「世界線」ではなく、マルチバース

シュウジがその前に「世界線」という言葉を使っています。これは「シュタインズ・ゲート」の中で使われた用語と同じ意味でしょう。

過去から未来まで続いており、様々な可能性を重ね合わせの状態で内包して無限に分岐して存在するが、平行世界とは異なり別の世界が同時に存在することはない

簡単に言えば「1本の糸」。

パラレルワールド」との違いは、世界は可能性の数だけ無限個に枝分かれして存在するが、観測する存在は1つしかない。
故に、無限に存在する世界の中で観測される世界は1つだけであり、それが世界の数だけ観測者が存在する「パラレルワールド」との違いである。

https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/33338.html

つまり、シュウジやララァは自身が「観測者」として見ている世界を「唯一の世界=世界線」と考えているということです。また、世界線に以下のような設定もあります。

また、近傍の世界線において、ある程度の揺らぎはすべて同じ未来に収束してしまう現象が起こる。
そのため死ぬことが決まっている人間はどんなことをしてもほぼ同じ時期に*1死ぬし、死なないことが決まっている人間はどんな状況でも死なない現象が起こる。
つまり、どんな行動を起こしても定められた結果、そこから逃れることはできない。

https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/33338.html

このように考えると、キシリアに殺されたギレンの末路や、そのキシリア自身がファーストガンダムと同じような展開でシャア自身に殺されたことも「世界線の事象の収束」と考えると説明がつきます。

「シュタインズ・ゲート」においても、未来の展開を変えるために主人公が過去改変を繰り返しますが、この「観測者」の存在を必要とするという概念が障害として立ちふさがる、という構造になっていました。端的に言えば、運命を変えようとして行動する観測者自身が、自身の記憶やそれまでの行動に結果的に拘束される結果になるため、なかなか大きく運命を変えるのが難しい、というストーリーになっていたのです。

ちょうど、ジークアクスにおいてララァやシュウジが「シャアが生き残る世界」を実現しようとしても、なかなか実現できなかったのと同じ理由です。

「シュタインズ・ゲート」では、その壁を乗り越えるために「観測者が、別の観測者と交流し、その人が体験してきた『別の世界の可能性』を知ること」、「タイムリープ(意識や記憶だけを過去に移動する)だけでなく、タイムトラベル(人や物を過去に移動する)を行う」というアクションが鍵を握っていました。

シュウジやララァは「世界を何度もやり直しているのは自分たちだけ」と考えているため、袋小路にハマってしまっています。しかし、ジークアクスはそれに対して「ガンダムがララァを殺す世界がある」ということ、自分はそれを知る「別の観測者である」ことを示しました。

これによって、彼らがいる世界は「世界線=観測者だけが知る唯一の世界」ではなく「マルチバース(複数の宇宙が同時並行的に存在する世界)」であることが示されたのです。

それは、ララァとシュウジが待ち続けてきた答えでもありました。彼ら自身が自分が望む世界を見つけられなかったとしても、可能性としてそうした世界は「存在する」ということが明確に示されたからです。

マチュが語るニュータイプとは?

マチュはさらに続けます。

「ララァはそんなこと望んでいない」
「誰かに守られなきゃ生き残れないなんて、そんなの本物のニュータイプじゃない」
「私たちは毎日進化するんだ。明日の私は、もっと強くなってやる!」
「誰かに守ってもらう必要なんてない、強いニュータイプに!」

この言葉に、向こう側のララァがついに目覚め、時間凍結から解除されました。

このシーンは、マチュが自身の口で初めて「ニュータイプ」という単語を定義したシーンでもあります。おそらく、シャリアとの交流を通じてニュータイプとはどんな存在か理解を深めていたのでしょう。

「ララァはそんなこと望んでいない」のシーンでは、ララァの象徴である白鳥とマチュが重ねて描かれていますので、マチュは正しくララァの真意を読み取っていることが示唆されています。

つまり、ララァは「愛するシャアが死んでしまったショック」で、新しい世界を生み出しはしたものの、その真意は「シャアに守られる必要がない、強い自分になること」だったということになります。しかし、ララァの真意を誤って認識したエルメスのサイコミュが、歪んだ世界を繰り返し生み出してしまった、というのが事の真相だった、ということです。

ララァはエルメスのコックピット内で時間凍結されていますが、あれはララァ自身が望んでそうなったわけではなく、むしろエルメスのアルファサイコミュの意図しない挙動によってそうなった、と理解するほうが正しいといえるでしょう。

マチュはシュウジの真意を理解しただけでなく、ララァの真意をも読み取ったわけです。

シュウジは何を間違っていたのか?

シュウジの気持ちの変遷を追いかけてみましょう。シュウジの願いは「ララァの想いを守りたい」ということでした、第四話でシイコとのキラキラの中では「僕の願いは一つだけ」と示唆されていましたが、初めて実態がわかったことになります。

しかし、これは実際にはララァの願いではなく、シュウジの一方的な想いでした。マチュは「向こう側のララァ」が自分を目覚めさせるために、スマホを通じてメッセージを送ってきていたことを感じ取り「ララァはそんなことは望んでいない」と伝えました。

ララァがマチュに送ったメッセージは「シュタインズ・ゲート」におけるDメール(過去にメールを送り、それを見た人の行動を変えることで未来を変えられるもの)と同じようなものでしょう。ララァのメッセージは「マチュをジークアクスに乗せる」「マチュがシャロンの薔薇を見つける」といった行動を誘導するものでした。ララァも自分やシュウジが主体的に動くだけでは事態は解決できないため、第三者の手を借りなければいけないことに気づいていたのでしょう。

マチュがシュウジに指摘したのは「自分の心に正直になろう」ということです。シュウジ自身は「ララァの心が壊れるのを防ぐために、彼女がショックを受ける前に彼女が願いが作った世界を滅ぼす」と理解していますが、マチュはこれを「ララァのことが好きだから、彼女を守ろうとしてそうしているんでしょ」と指摘し、自覚させたことになります。

例えるなら、シュウジは告白する前に失恋しているようなものです。想い人の恋人(シャア)が死んでしまい「自分を好きになってもらえる可能性はなくとも、懸命に寄り添おうとしている」ような状態でした。マチュは「シュウジは自分で自分の心を縛っている」「ララァも守られることを望んでいない」という2点で、シュウジは間違っていると考えたわけです。

ララァが他人に守ってもらわなくても生きていけるなら、シュウジも自身の失恋を受け入れれば、これ以上苦しまずに済みます。ララァとシュウジ、2人の心を救うことができる選択です。

自由を求めるマチュの行動が、シュウジ・ララァを自由にした

ララァの目覚めに至る一連のシーンでは、マチュ、ララァ、シュウジ、3人の成長が描かれています。

マチュ:自分の自由のための行動が巡り巡って、ララァやシュウジを自由にする結果になった
ララァ:時間凍結から解き放たれ、誰かに守ってもらう必要のない強いニュータイプを目指す
シュウジ:自分の本当の気持ちに気づき、縛られていた心が自由になる

マチュの行動で、シュウジの心が解き放たれた瞬間にララァが目を覚ますのは、彼ら3人の心の変化を表す象徴的な演出でしょう。

シュウジがマチュを好きになった理由

こうしてシュウジの心に、ようやくマチュの言葉が届きました。

「僕はララァを追って、たくさんの世界を巡ってきた」
「その長かった旅が、ようやく終わる」
「君のような人は初めてだ、きっとこの世界は君と僕が出会うために作られたのかもしれない」
「ありがとうマチュ。君が好きだよ」

気持ちが通じ合ったマチュとシュウジは、別れの口づけを交わします。

このシーンについて「シュウジはララァが好きだったはずなのに、いきなりマチュが好きになるのは李解できない」という人もいます。しかし、すでに述べたようにシュウジはララァに対してとっくの昔に失恋していたのです。本人がそのことを受け入れられずに、自分の気持ちを誤魔化しながら執着を続けていただけで、恋愛感情としてはとうの昔に整理が終わっていたはずです。

シイコが最後に笑った理由

シュウジは自分では「ララァの心を守るため」にララァと一緒に世界を巡ってきたと考えていました。しかし、実際にはそうではなく「ララァが好き」という気持ちを押し込めたまま、そこに踏ん切りをつけられずに執着し続けていたことに気がついたのです。

第四話で、シュウジとキラキラでつながったシイコが最後に笑みを浮かべた本当の理由もようやくこれで判明しました。シイコ自身、1年戦争で失った最初のマヴへの執着を捨てられず、家庭を捨てて戦いの世界へ戻ってきていました。そんなシイコが「すべてが手に入る完ぺきな人」と誤解して戦いを挑んだのがシュウジです。

しかし、そのシュウジ自身が、ララァという一人の少女に執着していて、それだけが望みだったということを知ったからこそ「自分と同じだ」と考えて笑ったのでしょう。

シュウジにとってマチュは特別な存在になった

シュウジの「君のような人は初めてだ」という言葉の意味は「マチュは自分の気持ちを理解してくれた初めての人だ」という意味でしょう。ニャアンもシュウジとキラキラでつながったことはありましたが、シュウジの心の奥にあるララァへの想いには気づくことはできませんでした。ニュータイプといえども、単にキラキラで繋がるだけですべてわかりあえるというわけではありません。シュウジが描くグラフィティの意味が読み解けていたかどうか、という点が大きな違いになっていると思います。

その点で、マチュはシュウジにとって唯一の「特別な女性」になりました。最後に「君が好きだ」と、ガンダムの名を借りるのではなく自分の言葉で伝えたのも、それが理由でしょう。

エンデュミオンユニットの正体とは?

ジークアクスのビームサーベルは、巨大な斧のような形状に。決着のときは近づいていました。

キラキラの中で状況を感じ取っていたシャリアとシャアは、赤いガンダムの代わりにゼクノヴァを起こすトリガーとして作られたのがジークアクスであること、シャロンの薔薇と同じく、向こう側からきたオーパーツが使われていることを語ります。ジークアクスの変貌はそのオーパーツ=エンデュミオンユニットが覚醒したことによるものでした。

エンデュミオンユニットの正体について情報はほとんどありませんが、CVが古谷徹氏であることから、ファーストガンダムでRX-78-2のパイロットであったアムロ・レイの意思が宿ったものであることは、ガンダムファンなら当然のように考える想像だと思います。

「逆襲のシャア」と似た世界のゼクノヴァ=アクシズショックによってこの宇宙に転移してきた存在かもしれませんし、「向こう側」のララァと同じく、ララァを殺してしまったショックで絶望し無数の世界を渡ってきたアムロの霊が宿ったものかもしれません。

ちなみにエンデュミオンは、ギリシア神話に登場する次のような人物です。

月の女神セレネはカリア地方のラトモス山にいるエンデュミオンを見てその美しさに心を奪われる。彼の美しさを永遠に保ちたいと望み、ゼウスに願い入れるが「死か永遠の眠りを選べ」と選択を迫られ、セレネは永遠の眠りを選ぶ。

こうしてエンデュミオンは永遠の眠りにつくことで不老不死となり、セレネは昼に地上に降りては眠っているエンデュミオンを眺めている。

https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%82%AA%E3%83%B3

ある日、山頂で寝ていたエンディミオンを見たセレーネーは一目惚れする。

しかし自分とは違い人間であるエンディミオンが年老いていく事に耐えられない彼女は、

神・ゼウスに彼を不老不死にする様に願った。

ゼウスはその願いを聞き入れたが、「人間に神と同じ不老不死は与えられない。永遠の眠りと引き換えにその美貌を保とう」と言い、エンディミオンは不老不死と引き換えに永遠に眠り続ける事となった。

セレーネーは夢の中でエンディミオンと交わりを重ねて50人の娘を産んだ。

https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%BC

月の女神セレーネーをグラナダの地下にあった「シャロンの薔薇」とすると、それと対になる意味合いでエンデュミオンの名がつけられたのでしょう。「永遠の眠りの中で、夢でセレーネーと会っていた」というエンデュミオンのエピソードから考えると、このエンデュミオンユニットもまた「何度も世界をやり直しているアムロ」が眠っているのかもしれません。

「ガンダムがララァを殺してしまう世界」で「ララァが生き続ける世界」を願ったアムロがおり、サイコミュの力で同じようなやり直しを繰り返した結果、この世界にたどり着いたのかもしれません。そうだとするなら、エンデュミオンユニットに眠るアムロにとっても、この世界での出来事はまた救いになったことでしょう。

シャアが己の生き方を変えた理由

ジークアクスのビームサーベルの一撃で、RX-78-2 ガンダムは頭部が破壊され、シャロンの薔薇=向こう側のララァは、自分を解き放ってくれた「こちら側のニュータイプ」にお礼を言い、向こう側へと消えていきました。

シャロンの薔薇が起こす大規模なゼクノヴァで、イオマグヌッソは完全に崩壊。シャアは「貴様に殺されないような生き方を探す」とシャリアに言い残し、コア・ファイターで戦場を後にしました。戦いの後、コア・ファイターで「帰れる場所」へと向かうのはファーストガンダムのアムロのオマージュにもなっています。

ジークアクスにおけるシャアは、ララァによって「生かされている」自分に違和感を覚え、それを正すべく行動を続けていました。これはちょうど、サイド6という恵まれた環境で暮らしている中で違和感を覚え、自由を求めたマチュと重なっています。

ララァを向こう側へ送り返そうとしていたのも、マチュと同じく「誰かに守ってもらう必要などない、強いニュータイプになろう」とする意思の現れでしょう。

また、ファーストガンダムにおけるシャアは、ニュータイプの新しい時代を作るという目標を掲げては居ましたが、その手段としては「ニュータイプを戦いのために使う」という発想しか持てていませんでした。そしてそのことをアムロに見抜かれていたからこそ、ラストでは同士になることを拒まれる結果になります。(ちょうど、本作でシャリアと戦うことになった経緯と重なります)

とはいえ、戦争を止めようとするアムロの意思だけは伝わり、それが最後にキシリアを殺す行動につながっています。今回も同じようにキシリアにとどめを刺し、最終的に地球への攻撃を防ぎました。

ジークアクスとRX-78-2の戦いは、シャロンの薔薇とエンデュミオンデバイスの旅の決着でもありました。「シャアが生き続ける世界」を願ったララァと「ララァが生き続ける世界」を願ったアムロ、2人の願いによってシャアは生き残ることになります。

シャアもまたゼクノヴァの中でララァ(シャロンの薔薇)とアムロ(エンデュミオンユニット)、2人の意思を感じ取ったのでしょう。そうでなければ、戦いの後で新しい生き方を探そうと考えを変えた理由がありません。変身が解け「シャア」ではなくなり、またダイクンの息子としての「キャスバル」としての役割ももはや不要となり、空っぽになったシャアの中には「自分を想ってくれている人の元へ帰る」という、ファーストガンダムのラストのアムロの想いがインストールされたのかもしれません。

「ニュータイプの世を作る」責任を引き継いだシャリア

シャリアは脱出ポッドの状態で、エグザべに回収されます。これはちょうど、逆襲のシャアにおいてアクシズの落下が決定的となった後、サザビーのコックピットブロックをアムロのνガンダムに回収されたシャアのオマージュになっています。

本作におけるシャリア・ブルは、ファーストガンダムにおけるシャアの役割を引き継いだキャラクターでした。

木星から帰還し「空っぽ」になっていたところ、同じくニュータイプであるシャアと出会い「ニュータイプによる新しい時代」を作るという理想に共鳴したところで、当のシャア本人はゼクノヴァでどこかへ消えてしまいました。ちょうど、父ジオンの理想を言葉だけ受け継ぎ、どのように形にしていけばいいかわからないまま継承したシャアと同じような流れです。

結果、ザビ家打倒というシャアと同じ目標に向かって突き進むことになります。ザビ家を倒したその後のことを考えていなかったシャアを「危険」と批判しておきながら、自分自身もいざそうなったときにはなにも考えはなく、アルテイシアに任せて自分自身は「どうなってもいい」と考えていたのでしょう。

シャリアは「この命を持って罪を償う」と告げますが、エグザべは「ザビ家亡き後のジオンをなんとかしろ」と一喝、シャリアに死ぬことを許しませんでした。

かつてシャリアが木星で死を覚悟したとき、機器が復旧し無事帰還できたのはララァの意思によるものでしょう。シャリアを生かすためにおこなった干渉でしょうが、それは結果としてシャリアを「空っぽ」にしてしまい、彼から生きる目的と意思を奪ってしまいました。

今回のエグザべの言葉は、シャリアが木星に出発する前と同じ「他人から与えられた義務・責任」を与えるものです。しかし、この場においては木星のときと同じようにすべて自分の目的を達成し、死んでもいいと考えていたシャリアに、新たに生きる意味を与えることになりました。

背負う責任はかつてのシャアと同じでも、シャリアはエグザべやコモリ、そして他ならぬマチュといった優れたニュータイプを見事に成長に導いたという実績があります。彼ならZガンダム以降、若いニュータイプをうまく導くことができなかったシャアと同じ轍は踏まずに済むでしょう。

エピローグ

戦いはすべて終わりました。

ニャアンはシュウジが向こう側へと帰っていったことを理解。マチュはジークアクスのコックピットの中で、ひたすら泣き続けるのでした。

アルテイシア擁立にランバ・ラルの影

ザビ家亡き後のジオンでは、アルテイシアが元首に推戴され、傍らにはランバ・ラルの姿も見られます。

ランバ・ラルは小説版ではギレンの親衛隊として描かれており、第六話でシャリアが連絡しようとしていた「ギレン総帥のシークレットサービス」とはおそらくこのラルを指しているものと思われます。

小説版『機動戦士ガンダム』でのランバ・ラルは、総帥ギレン・ザビの親衛隊長を務めている。父ジンバがダイクン派であったことは同じだが、逆にそのことを負い目としてギレンに忠誠を尽くしている様子が描かれている。小説版では地球での戦闘自体がないので、グフなどのモビルスーツに搭乗することもない。アムロたちとの交戦もなく、戦死もしていない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%AB

アルテイシアの擁立も、おそらくはラルが背後で動いていたものと思われます。

また、劇中での描写が少ないため確証はありませんが、おそらくはクランバトルの主催もランバ・ラル、もしくは彼ら隠れダイクン派であった可能性があります。

【考えられる伏線】

(第三話)シャリアとカムランの会話から「ジオンも懐が苦しい」というシャリアにカムランが「御冗談を」返している=実入りの良い稼ぎがあることを知っている。
(第四話)現役機であるゲルググが軍から横流しされている。
(第六話)バスクのセリフから、キシリアの来訪を知らせた「ザビ家を快く思わないもの」がジオンにいる。
(第七話)クランバトルのスポーン地点が直前にコロニー内に変更される(暗殺計画の存在を知っており、かつそれを妨害する目的がない限り動機がない)
(第八話)ミゲルやアザーヴに接触したギレン派も、それを隠れ蓑にしたダイクン派であった可能性もある。

おそらくは、ダイクン派がクーデターのための資金集めとしてクランバトルの興行を利用していたのではないでしょうか。

「クワトロ」になったシャリア

少し離れた場所では、シャアのような仮面を被ったシャリア・ブルとエグザべ、コモリが見守る姿も描かれます。傍らにギャンが見えますので、不測の事態に備えて警戒しているのでしょう。シャリアがなぜシャアのような仮面を被っているのかといえば、先に述べたように「ニュータイプがニュータイプらしく生きられる世界を作る」というシャアの責任を引き継いだからでしょう。シャリアが「クワトロ・バジーナ」になった、と言い換えても良いかもしれません。

待ち望んでいたシャアの到来に涙するララァ

地球では、子どもたちと路上生活を送る「こちら側のララァ」の元をシャアが訪れ、ずっと待ち続けていた想い人の到来に、ララァは涙を流します。

ララァはカバスの館にはおらず、路上生活をしていることから、おそらく館は全焼して復旧できず、ララァも他の娼婦たちも仕事を失い路上生活を強いられることになったのでしょう。赤い士官服を来ていなくてもシャアだと判別できているので、この世界では初対面となる彼らですが、きっとうまくやっていけることでしょう。

カネバンの今とソーラ・レイ暴走事故

イズマコロニーを脱出し、ジャンク屋家業を続けていたカネバンの面々は、イオマグヌッソ崩壊現場の立入禁止が解除されたことを知り、大量のジャンクを求めてそこへ向かうことを決意します。

彼らが見ているニュースの画面から、イオマグヌッソでの一連の出来事は表向きは「ソーラ・レイの暴走事故」として決着したことが示唆されています。幸か不幸か、ソドンクルーやマチュたちを除く関係者はほぼ現場で亡くなっていますので、情報統制は容易だったでしょう。ゼクノヴァについても、一般にも、軍内部においても限られた人しか知ることのない情報だったでしょうから「不運にもギレン・キシリアが同時に亡くなってしまった」という状況の中で、アルテイシアを擁立するという流れは自然に持っていくことができたのではないでしょうか。

マチュの両親の今

おそらくはマチュの一件で、自宅でのリモートワークを余儀なくされていたタマキは、深夜に机に突っ伏して眠っていたところで、マチュからのメッセージの着信に気づきます。驚きから、画面外にいて映らない父親にも娘からの連絡があったことをすぐに伝えようとしました。

荷造りをしている様子があることから、今住んでいるマンションには居られなくなり、おそらくはサイド6の別の場所に移り住むか、別の国へ移住しようとしているのでしょう。

娘とのコミュニケーションは結局はうまくいかず、離れ離れになってしまったマチュの両親ですが、心までは断絶せず、再び会える可能性が示唆されました。救いが残される親子関係も、従来のガンダム作品ではあまり描かれることがなかった描写です。

「ガンダムが言っている」の意味

マチュとニャアンの2人は、地球のどこかの砂浜でコンチ・ハロを伴いながら優雅に佇んでいました。地球の次に行きたいところはどこか尋ねるニャアンに、マチュはシュウジのことを思いながらこう答えました。

「いつか、また会えるって。ガンダムが言ってる」

ちょうど、シュウジの口癖だった言葉をマチュが口にしたところで物語は締めくくられます。この言葉にはどういう意味があるのでしょうか。

シュウジは序盤から「~~とガンダムが言っている」と繰り返し口にし、ガンダムの意思を代弁しているかのような素振りを見せていましたが、最終的に赤いガンダムにも、最終回で登場したRX-78にも特別な意思のようなものは宿っていない、ということが判明しています。

第四話でマチュが言っていたように「シュウジ自身がそうしたい」と考えることをあえてそのように表現することで、「ララァが好き」という自分の本当の気持ちに正直になれないシュウジの性格を表す演出であった、と解釈できます。

しかし、同じセリフでもマチュが口にする場合は意味合いが異なります。マチュはシュウジとは異なり自分の気持ちに正直な性格ですし、なにより彼女が乗っているジークアクスのエンデュミオンユニットには何らかの意思が宿っています。

したがってこのときのマチュのセリフは「またいつかシュウジに会える」という彼女自身の確信であるとともに、その想いに同意するジークアクスの意思を表すものでもある、と考えます。

ジークアクスのテーマは何だったのか?

いよいよ完結を迎えましたので、もう一度ジークアクスという作品全体のテーマを考え直してみましょう。

一般的には第十一話、第十二話でタイムリープ・マルチバース的な世界観の背景が明らかにされ、またRX-78が登場したことで「機動戦士ガンダム」という作品に対して、クリエイターとして鶴巻監督がどんなメッセージを表現しようとしたか、というメタ的な解釈をしようとする人が多いように感じます。

私自身、そういったメッセージは間違いなく含まれていると思いますし、特にシュウジの正体について確定できるほどの情報が明示されていないことから、最終的にはそうしたメタ的な解釈を含んだ「ガンダム」という作品へのメッセージを感じてほしい、という点が作り手の意図に含まれているのは間違いないと考えています。

ただ、私は割とジークアクスのストーリー自体を楽しんでいたので、できるだけ劇中で描かれた描写を元に、物語としてのジークアクスのテーマを解釈しようと試みました。

「自由を求める意思」を肯定する

物語としてのテーマを解釈するにあたって、最初に重要になるのがマチュの生き様です。最後のシャリアによる人物評にも現れている通り、マチュは「自分自身の自由のために傷つくことを厭わない」という性格でした。

視聴者の中には、マチュの行動の結果として親を含めた周囲の人へ迷惑がかかる点が気になっている方も多かったようですが、それはあくまでも副次的な話であって、本質的には「自分の自由のために行動する」という点を肯定的に描こうとしていたのは間違いありません。

例えるなら、クリエイターになるという夢を抱いて親元を飛び出し、ひとりで都会に繰り出していく若者のような生き様でしょうか。鶴巻監督自身が、似たような経験をしていることからも伺えます。

そして完全歩合制のアニメーターなら1円も稼げないということはないだろうと思い、親には黙ったまま東京のアニメ専門学校に行くことを決め、自活のために新聞奨学生に応募する手配まで済ませてしまった[6]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%B7%BB%E5%92%8C%E5%93%89

自由を求める意思は周囲を感化する

しかし、やはり自分の自由を追求する過程で「周囲に迷惑がかかる」という点が気になる人もいるでしょう。実際、マチュもテロリスト容疑で指名手配され、無断でジークアクスに乗った罪でソドンの独房にも入れられていました。その点についてはジークアクスでも避けることのできないデメリットとして描いています。

ただ、周囲の人に与える影響はネガティブなものばかりとは限りません。「自由を求める生き様が、同じく自由を求める他者の生き方を感化する」というポジティブな影響を及ぼす可能性もあります。実際、マチュはニャアンやシュウジ、ララァといった周囲の人々に影響を与え、結果的に彼らが自由を得るための手助けをしました。間接的にはシャアやシャリア、コモリにも大きな影響を与えています。

これは、本来の宇宙世紀ガンダムでもニュータイプの生き様として部分的に描かれてきたものでした。ファーストガンダムのラストで、アムロ以外の仲間たちも彼の声が聞こえるようになり、全員が脱出に成功した描写もそうですし、逆襲のシャアで地球を救おうとするアムロの意思に感化され、敵味方問わず多くの人々の意思がアクシズを押し返したのも「人の意志が伝播し他の人の意識を変える」という演出です。

マチュの影響を受けて、ニャアンは弱い自分を認められるようになり、コモリはニュータイプ・ゼクノヴァについての理解が促進され、シュウジはララァへの気持ちに区切りをつけることができるようになりました。このように「自由を求める人」が周りにプラスの影響を振りまいていく、というのはジークアクスにおける「ニュータイプを肯定的に描こう」とする側面の現れだと感じます。

自分の生き様を示すことでしか他人は変えられない

逆に「他人に影響力を及ぼして生き方を変えさせよう」とする行為は、ジークアクスでは否定的に描かれています。序盤ではマチュに対するタマキの接し方がそうですし、後半はニャアンに対するキシリアの態度にも現れていました。逆に、シャリアのマチュに対する接し方には、相手の自由への意思を尊重する理想的なコミュニケーションの取り方が描かれていました。

これらの描写の対比からジークアクスが描こうとしていたのは「他人を変えようとしても変えることはできない」「自由を求める自分の生き様を見せることで、相手に自由の大切さを示唆し、それによって生き方を変えられる可能性はある」ということではないでしょうか。

相互理解のためにぶつかり合うのがニュータイプ

そしてそれはニュータイプの描かれ方にも現れています。ニュータイプはキラキラを本当の気持ちで通じ合えるため、表面的なコミュニケーションを取る必要はありませんが、逆に本当の気持ち同士のぶつかり合いになるので、譲れない本気の戦いになってしまうこともあります。宇宙世紀のガンダムでは、この点に明確な回答が提示できていませんでしたが、ジークアクスにおいては「自分の気持ちも縛らず、自由になることで自ずと最良の選択肢が見えてくる」という見せ方をしていました。

そう捉えることで、戦いとは相互理解のための過程という位置づけになります。第四話におけるシイコとシュウジの戦いもそうですし、最終回のマチュとシュウジの戦いもそうでした。さらにいえば、MSを用いたバトルだけでなく、人間同士の意思がぶつかり合うこと自体が、そうした相互理解のためのプロセスである、といえます。

これまでの考察でも説明してきたように、作中序盤の主要キャラクター同士のコミュニケーションは、基本的にお互いがお互いを誤解しながら進むという原則がありました。それが徐々にニュータイプ同士がキラキラで齟齬なく会話できるように変化していき、最終回ではマチュとシュウジの気持ちがついに通じ合うというきれいな流れで締めくくっています。

ゼクノヴァとは、自由を求める意思が交わり世界を変える現象

このような変遷をたどることになった背景には、ゼクノヴァの発生があります。ゼクノヴァもまたキラキラ=人間同士の意思のぶつかり合いの結果生じる物理現象として描かれており、それが起きれば起きるほど、周囲の人間のニュータイプとしての覚醒が進み、相互理解が進んでいく、という全体の構造になっていました。(ゼクノヴァを見るごとに解説が流暢になるコモリ少尉はその象徴的なキャラクターです)

ゼクノヴァは「異なる宇宙同士でのエネルギーの行き来」によって生じる現象でした。それぞれの宇宙にはそれぞれの住人がおり、その意志によってゼクノヴァが生じます。「向こう側のララァ」に代表されるように「世界を作り変えよう」とする意思こそがゼクノヴァのきっかけであり、その背景には「自由を求める意思」があることも共通しています。

当初は「向こう側のララァ」の意思によって世界が歪められていると考えられていましたが、実際にはシュウジやエンデュミオンユニットなど、複数の人々の意思が世界に影響を与えていることがわかりました。そしてそこにマチュやシャアといった、別の人々の意思も加わっていくことになります。本作のキャッチコピーである「夢が交わる」は、スタジオカラーとサンライズのコラボレーションという意味だけではなく、こうした登場キャラクター同士の夢が交わることによって、世界全体が変わっていくことを表す言葉でもあったのだと思います。

ジークアクスが描いた「自由」

まとめると、ジークアクスという作品は「自由を求める意思」や「自分の本当の気持ちに正直になる」といった、時として「自分勝手」と捉えられることもある生き様を肯定するとともに、それこそが世界を変えるきっかけになるとして前向きに捉えていることがわかります。

ニュータイプとは、そうした生き方を体現する存在であり、人の意志と意思がぶつかったとしてもそれは相互理解のために必要な工程です。さまざまな人々の「自由を求める意思」が交わってできているのが世界であること、人も世界もより良い姿を求めて絶えず変わり続けていることを描こうとしていたのではないでしょうか。

個々人の自由意志や主体性、世界や他人に積極的に関わろうとする姿勢を評価する前向きな捉え方で満ち溢れているところが、素晴らしい作品だと思いました。