機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)考察-第九話「シャロンの薔薇」の考察です。
※第九話放送終了後~第十話放送開始前までに視聴した感想・考察です。
第八話の考察はこちら
マチュ、地球へ
第八話のラストで言及されていたように、ソドンからジークアクスを奪って大気圏突入するマチュのシーンから始まります。さすがのマチュも少しパニック気味になりますが、ジークアクスの腕(オメガサイコミュの操縦桿)が抱きしめるように伸びてくると、少し落ち着きを取り戻します。
これもマチュの明確な変化です。当初は赤いガンダムと会話しているかのように振る舞っていたシュウジを「モビルスーツが喋るわけがない」「単なるシュウジの口癖だろう」と見ていたマチュでしたが、第七話で、危ういところを無人で起動したジークアクスに助けられたあたりから、明確にジークアクスに何らかの意思があるものと考えて触れ合っていることがわかります。
ジークアクスは海上への着水直前にコア・ファイターを切り離し、それは付近の陸地に着陸しました。あらかじめこの状況を予期していた「お姉様」によって、マチュは回収。「カバスの館」のベッドの上で目を覚まします。
初出は富野由悠季が執筆した『密会〜アムロとララァ』。
宇宙世紀のインドにある娼館で、一年戦争の最中にララァ・スンがシャア・アズナブルと巡り合った場所である。
https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%AB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%A4%A8
本物の重力と空、そして太陽を実感したマチュは、昨日ソドンから逃げ出したときのことを思い返していました。
コモリは常識人・委員長キャラか?
独房に入れられていたマチュに、コモリがスマホとハロを返却しにやってきます。コモリはマチュがクランバトルに出ていたことを「小遣い稼ぎのため」と考えているようですが、実際には違うのでこの点も例によって「主要キャラクター同士が会話するときは誤解が生じる」という原則を守っています。
同時に、マチュが母親に迷惑をかけていることについても言及していますが、マチュがそんなことを気にするような人間であれば、そもそもこの場には来ていませんから、この点においてもマチュの人柄に対する誤解があります。第八話でのニャアンの視点を通じた描写で、視聴者に対してもそのことは十分に伝わったはずです。
コモリから渡された着替えに「ジオンの軍服なんか着ない。ダサいし」と反抗的な態度を見せるマチュですが、これは彼女の「自分に無理解な大人」に対する共通の姿勢です。直前の会話で、コモリが自分のことをまったく理解していないこともわかっているので、当てつけに反抗してみせたのでしょう。
対するコモリの姿勢は、常識人としての態度が強調されています。第八話までに描かれた彼女の姿勢も、一貫して常識的・規律やルールなどを重んじるものでした。上官のシャリアに破天荒なところがあるため、そこと対比する意味でもそうした立ち位置が求めらたのでしょう。
それだけであれば、破天荒なシャリアやマチュを相対化する役割、というだけのキャラクターですが、私はそれだけにはとどまらないと考えています。OPでもエグザべとセットで描かれているにもかかわらず、ここまで2人の会話がまったく描かれていないことや、1話の「ゲロマズ」といった「委員長キャラ」には似つかわしくないセリフなどがあるためです。彼女の物語上の役割は今後、明らかになっていくでしょう。
娼館に自由を奪われる少女たち
「カバスの館」では、マチュが小間使いのヴァーニ、カンチャナから「お姉様」に関する話を聞いていました。「薔薇を追う人が降りてくる」ことを夢で見て、医師などをあらかじめ待機させていたときき、マチュは興味を惹かれます。同時にそこが娼館であることも理解したようです。
「君たち、ここに閉じ込められてるの?」と尋ねるマチュは、窓を向いています。独房に入れられたときのマチュ本人や、第八話のニャアン、キシリアのシーンなどでもわかるとおり、窓が印象的に描かれるシーンは「その人が捕らえられ、逃げられない状態」になっていることを印象付けるものです。
自分たちの現状について、ヴァーニとカンチャナが示した態度は対照的です。ヴァーニは娼館で働くことを特に不快には思っておらず「きれいな服を着て、食事が出るだけでもラッキー」「外では物乞いをしている人もいる」と答えています。一方、カンチャナのほうは目線を伏せ、ヴァー二から同意を求められたときも回答を避けていました。
後のシーンにおけるカンチャナの発言や、彼女が後に出てくる娼婦同様、目のハイライトが描かれていないことから「彼女もただの小間使いではなく、客の相手をさせられているのではないか」と解釈する人もいるようですが、私の考えは違います。
実際にカンチャナが娼婦として扱われているかどうかはわかりませんが、彼女が自分の現状について、ヴァーニほど肯定的には考えていない、ということでしょう。この2人の認識の違いは、直後のシャリアの会話とも関連しています。
恵まれた環境にいたら自由を諦めるべきなのか?
再び回想シーンで、シャリアから尋問を受けるマチュが描かれます。シャリアは開口一番、「あなたはたまたまサイド6に生まれた幸運に感謝すべき」と語ります。マチュは露骨に視線をそらし「また大人の説教が始まった」という態度です。ただ、私はここでのシャリアの言葉は単純な説教とは違うと考えています。
シャリアはさらに「先の戦争では全人口の半分が死んだ」「生き残った多くのものも土地を失い、難民となった」と続けます。「スペースノイドが自立するには大きすぎる犠牲であり、だからこそまたあんな戦争を起こしてはいけない」というのがシャリアの主張です。
独房でのコモリの言葉や、タマキから常々言われてきた進路に関する話、カネバンの面々から言われてきた「普通の生活に戻れ」といったセリフは、基本的にはマチュの姿勢や考え方に対する説教です。
- サイド6の富裕な家庭に生まれ、平和な中で生活できるのは恵まれたこと
- 世の中にはそうできない人もたくさんいる
- だからこそ、その幸運に感謝して、その環境の中で生きるべき
というのが彼らがマチュに伝えたいことでしょう。実際、ジークアクスを第七話まで見てきて、マチュに同じような感想を抱いた視聴者も多かったことでしょう。
しかし、マチュが「恵まれた環境にいる」というのは、相対的な評価にすぎません。それはヴァーニが、娼館で働かなければならない自身の環境を「物乞いよりはマシ」と捕らえていることと同じ構図です。もちろん、こうした考えは決しては間違いではありませんが「そのように考えられない人も一定数いる」ということは理解できるのではないでしょうか。
おそらくカンチャナはヴァー二のように、自身が置かれた環境を「恵まれている」とは思えないのでしょう。それは自分も娼婦として扱われているからかもしれませんし、あるいは他の娼婦がそうした状況に置かれていることに、間接的に手を貸していることへの贖罪意識かもしれません。もしくは、マチュのように単純に「ここではないどこか」への憧れが心のなかで鬱屈しているのかもしれません。
環境の中で生きる生き方も、自由を求める生き方も肯定される世界
ジークアクスは「他人から見たら恵まれた環境でも、そこからの自由を求める気持ちを抑えられない人はいる」ということを、正面から肯定的に捉えているところが非常に素晴らしい作品だと思います。
特に現代日本は「失われた三十年」や少子高齢化などによって、長期にわたって閉塞感が漂い、そうした「高望み」をすること自体、不道徳なことであると捉えるような風潮も感じられる場合があります。なので、こうしたテーマを真正面から取り上げることは、表現の世界ではリスクが伴うことです。
ジークアクスは、相対的に「恵まれない環境」にいながら「自分は運が良かった」と解釈するニャアンの生き方を肯定していると同時に、相対的には「恵まれた環境」にいながら「自由」を求めて自分勝手に振る舞うマチュの生き方もまた、肯定しています。私はこの点に強い魅力を感じています。
シャリアは誠実に自分の目的を語っているだけ
次に、シャリアがマチュに語った言葉の意味について考えてみたいと思います。「サイド6に生まれた幸運に感謝すべき」と言っているので、一見すると他の大人と同じように「高望み」をたしなめる説教のようにも聞こえますが、続く言葉も合わせて聞くと別の解釈が見えてきます。
そもそもこの尋問は、マチュに赤いガンダムとシュウジがどこに消えたのか、その手がかりを尋ねるために行われたものでした。シャリアは自分がなぜそんなことを聞こうとしているのか、その理由を誠実に説明しているに過ぎません。その証拠に、かつてアンキーと会話したときと同じようにマチュに正面から向き合って話しています。(劇中で最も会話しているコモリがほとんど正面から話してもらえないことを考えると、どれだけレアなケースかお分かりいただけるでしょう)
私の解釈では、シャリアが伝えたいことは次のような意味合いです。
- 先の戦争では多くの人が犠牲になった
- こんな戦争を繰り返してはいけない
- そのためには今の平和を守りたい
そして「自分が赤いガンダム・シュウジの居場所を聞くのは平和を守るために必要だから」だと言いたかったのでしょう。アンキーと話したときに「(ジークアクスで素晴らしいM.A.V.戦が見られて)むしろ感謝したいくらい」と言っていたのに、今回いきなりマチュに説教を始めるのでは意味が通りませんし、本当に説教をしたいならもっと直接的な言葉を使ったはずです。すぐに話題がシュウジの話に移っっていることからも、自分が尋問を行う大義名分を納得できるよう、説明したと解釈するのが自然です。
シャリアのニュータイプ読心術
会話の中で、マチュはソドンがイズマコロニーを離れたことに気づきます。シャリアは「軍の施設を護衛するために地球方面へ向かっている」と説明します。これはおそらくイオマグヌッソの建設現場のことでしょう。
話題はそのまま、核心であるシュウジと赤いガンダムの行方へ。ここでマチュはシャリアがシュウジやシイコと同じように「考えを読む能力を持っている=ニュータイプ」であることに気づきます。マチュがイメージした「ガンダムは薔薇を探している」というセリフに反応し、シャリアは「シャロンの薔薇」について語り始めました。
- 1年戦争のさなか、シスルナ空域に突然現れた
- この世界には存在しないはずの異常なオブジェクト
- グラナダで詳細な解析を試みたが戦禍の中で姿を消した
マチュはシュウジについても、シャロンの薔薇についても何も知りませんでしたが、シュウジが眠っているときに呟いた「地球に行く」という言葉だけは覚えていました。このセリフはマチュがシュウジの考えていることを知ろうとして、眠っている彼に近づいたときに彼が呟いた言葉です。今シャリアがマチュにやっているのと同じように「ニュータイプ能力による読心」を意識せず使って入手した情報ですから、シュウジの本心を現していると考えるのが自然です。(シュウジは眠りながら、マチュの意識下の問いかけに回答していた、と考えています)
謎のメッセージは検閲にも気づいている
独房に戻されたマチュは、限られた手がかりの中から自分がどこへ向かうべきか必死に考えます。
「シュウジは薔薇を探している。なら、薔薇のところに行けばシュウジに会えるはず」
その結論に至ったとき、スマホに謎のメッセージが届きました。「もうすぐ薔薇が咲く」と伝えた後、独房のロックを解除。ジークアクスまでの経路を誘導し、マチュの脱出の手助けをはじめました。メッセージを疑うこともなくマチュはジークアクスに登場しソドンを脱走、地球に向かうことになりました。
このとき気になるのは、最初は日本語だったメッセージが途中から英語になっていることです。最初のメッセージが日本語で書かれていたのは、マチュが普段使っている言語に合わせたからでしょう。その後のメッセージが英語になっているのは、マチュのスマホをミラーリングして検閲しているシャリアにわかりやすいようにそうしているのだと考えられます。
シャリアもそのことを理解しているからこそ「ここは謎のメッセージに従うのが得策」とマチュを自由にさせたのだと思われます。マチュを薔薇のもとに導こうとする何者かが(自分たちがマチュのスマホを検閲していることも承知の上で)彼女を薔薇のもとに誘導しようとしているのなら、それに従おう、という考えでしょう。
シャリアにとってのコモリの役割
ここで尋問のシーンからの、コモリの言動を振り返ってみます。コモリはマチュと会話するシャリアが機密事項を口にするたび、たしなめていました。また、マチュがシャロンの薔薇やシュウジについて何も知らないと考えると「たまたま一緒にいただけでは」と口にしています。
もし、コモリがこの場にいなければシャリアとマチュの会話はもっとスムーズに進んだはずです。シャリアはコモリからも「秘密主義」と言われるほど、影で動くことも多い人物です。なぜあえて彼女を同席させたのでしょうか。
第九話以前のシーンだと、シャリアがポメラニアンズのクランバトルを見るシーン(第四話)や、エグザべに単独行動を許すシーン(第五話)でシャリアはコモリを自室に招き、2人で会話しています。背中を向けていますから本心をさらけ出しているわけではないとはいえ、彼女と会話するシーンになにか共通点はないか考えてみました。
以前から触れてきた「コモリはギレン派であり、シャリアを監視する役目がある」という説ももちろんあります。第七話以前の段階では、あえてコモリに重要な会話を聞かせることで、ギレン派に対して自分の目的をカモフラージュする意図があったのは疑いありません。
しかし、それ以外にシャリアがコモリを同席させている理由として「自分の行動を客観視すること」を目的にしているのではないか、と私は考えています。ちょうどリア王における道化と同じ役割です。
シャリアは読心術に優れたニュータイプですが、その能力をある程度セーブしていないとファーストガンダムでギレンやシャアに警戒されたように余計な疑いを招いてしまいます。また、シャリアは必要とあれば機密事項を外部に漏らしたり、ソドンをサイド6に駐留させるなどの突飛な策を取ることも厭わない、積極的な性格です。これもまた、うまくセーブしないと自分の身を滅ぼしかねない弱点になってしまいます。
こうした自分の性格的な欠点をフォローするための制御装置としてシャリアはコモリを周りにおいているのではないでしょうか。
「お姉様」が見た向こう側の夢とは
カバスの館は夕暮れに差し掛かるころ、マチュは館の外に「お姉様」と呼ばれる人物の姿を発見します。他の娼婦にからかわれながら、お姉様のところに向かうと彼女はブランコに乗りながら「渡り鳥」の話をします。
「鳥が山脈を超えるなんて昔は誰も想像しなかった。人が宇宙で暮らすことを想像していなかったように」
マチュは彼女にしては珍しく、礼儀正しく助けてもらったお礼をします。同時に、かつてシイコとシュウジが起こしたキラキラで、その奥にいた「彼女」に出会っていたことに気が付きました。
「お姉様」は、マチュが何も言わないうちから彼女が薔薇を探しに地球にやってきたことを知っていました。マチュは自分が「薔薇を探している男の子」を見つけに来たこと、「お姉様」が持っている「夢で未来を見る力」について伝えました。
ララァは「自分には『未来』はわからない。見るのは『向こう側』の夢」だと応えます。マチュと感応したキラキラの中で彼女が語る「向こう側の夢」とは次のようなものでした。
- 向こう側の自分は本物の恋をしている
- 若いジオンの将校が館を訪れ、自分を見初める
- 身請けして自分を連れ出してくれる
- そこから自分の本当の人生が始まる
- 宇宙に連れて行ってもらい、彼のために戦う
- 彼のためになら死んでもいいとさえ思う
- 宇宙に行けば自分は自由になれる、何でもできるようになる
- でも彼は白い連邦軍のMSと戦い命を落とす
- そしてジオンは戦争に負ける
- 白いMSのパイロットも好きになる、どちらも大切な存在になる
ただし、この夢はこれで終わりではなく「赤い士官服の彼」との出会いが何度も繰り返されること、何度やり直しても「白いMSの彼」が「赤い士官服の彼」を殺してしまうことも合わせて語られました。
「ララァ・スン」と名乗った女性との会話はここで打ち切り、2人は館に帰りました。
ララァとマチュの会話は、非常に多くの示唆に富んだシーンです。
渡り鳥はヒトの想像力・可能性の比喩
まず、冒頭の渡り鳥の会話は何を意味しているのか考えてみました。ララァは渡り鳥を「人間の想像力」を示す比喩として使っています。つまり「人が宇宙で暮らすこと」を考えた、想像力が豊かな人々が過去にいて、彼らが様々な挑戦をした結果、今日でスペースコロニーで人が暮らすの当たり前になった、という話をしているわけです。端的に言えば「想像力が人間の可能性を広げる」という意味でしょう。
向こう側の夢で未来がわかる理由
ララァは「自分が見るのは向こう側の夢」だと説明しています。これは「未来の出来事がわかるわけではないが、今自分たちがいる世界と非常に近い、別の世界の出来事を夢で見られる」という意味でしょう。
完璧な未来予測とは言えないものの、今の世界と限りなく近い世界の未来が見通せるのなら、それは高精度のシミュレーションを行っているのと何ら変わりません。
夢の中で自由が得られないララァ
彼女が語る「向こう側の自分の夢」の内容は、ほぼファーストガンダムにおけるララァ・シャア・アムロの3人の関係性と一致しています。唯一違うのはファーストガンダムでは「ララァがシャアをかばってアムロに殺される」という点です。
もう一つ気になるポイントは、ララァは向こう側の自分を「本物の恋をしている」「自由」だと考えていることです。前段の会話から続けて考えてみると、まず渡り鳥の比喩は「想像力が人間の可能性を広げ、自由にする」ことを意味しています。これは一般論でも正しいと言っていいでしょう。
たとえば、クリエイティブの世界であれば制約が少なく、自由な発想ができるほうがより良い制作物が生まれます。ビジネスや学術・技術の世界でも既成概念にとらわれない斬新なアイデアが世の中を大きく変えることがあります。個人レベルでも「過去の自分」にとらわれることなく、新しいことにチャレンジして自己実現を成し遂げる人は多くいます。
しかし、これはララァが見る夢が、何度繰り返しても「白いMSの彼に赤い士官服の彼が殺されてしまう」という結末に至っていることと矛盾しているように思えます。ララァは本物の恋や自由にあこがれを抱きながらも、夢の中では自由を得られない、という矛盾を抱えてしまっているわけです。
この点については、後ほど他のキャラクターとララァの価値観を比較する形で考えてみたいと思います。
ララァは館を抜け出したら自由になれたか?
その夜、マチュはヴァーニとカンチャナから「今夜のうちにあんたを逃がす」と伝えられます。館の主はマチュを地球のジオン軍に引き渡そうとしていますから、その前に脱出しないと薔薇を見つけられないと考えたララァからの指示でした。
ただし、ヴァーニたちはララァには内緒で「お姉様も一緒に連れて行ってほしい」とマチュに依頼しています。このとき、カンチャナが計画より大きな火事を起こし、館の広範囲を燃やしていることから、彼女がこの環境を「恵まれている」とは考えていないことがわかります。とはいえ、館を燃やしたところで彼女たちはそこから逃れることはできないでしょう。館の外で生きていく術を持たないからです。
マチュは約束を守り、ララァを一緒に連れて行こうとします。「あなたにはもっとふさわしい場所があります」「宇宙ならあなたはもっと自由になれる」と語りますが、どちらのセリフもカンチャナやララァ自身からの受け売りです。1話で軍警にやり返せないニャアンを見て義憤に駆られたときと同じように、なんとかララァを自由にしたいという想いはあるのですが、そのためにどうしたらいいかわからず気持ちだけが上滑りしてしまっている印象です。
実際、もしララァがここから連れ出されたとしても、シャリアに捕らえられてニャアンと同じようなルートを辿るのが関の山でしょう。「宇宙に行けば自由になれる」というマチュの言葉はまったく根拠がないわけです。
ララァは誘いには応じず「あなたにはやるべきことがある」と、マチュを送り出しました。
自由を得るための条件
これらカバスの館での一連の出来事は、マチュの「自由」に対する捕らえ方の変化を表すためのシーンっだと私は解釈しています。
カバスの館は「恵まれてはいるが不自由」という点で、マチュが閉塞感を感じていたサイド6に対比される存在です。マチュは「サイド6を出れば自由になれる」と考え、地球の海や宇宙への憧れをつのらせていました。1話の「宇宙って、自由ですか?」のセリフにもその意識が現れています。いわば「環境を変えれば自由になれる」と考えていたわけです。
しかし、実際にはサイド6を出ても、地球に来てもそこに自由はありませんでした。そこにはかつての自分と同じように、不自由を感じながらもその環境の中で懸命に生きようとする人々が生きていました。彼らのスタンスは3パターンに分けられます。
(A)「恵まれた環境」に満足し、そこで生きようとするのもの
(B)「不自由な環境」に不満を抱くも、そこを脱するすべを持たないもの
(C)自ら「恵まれた環境」を捨ててでも自由を求めるもの
(A)は、タマキやヴァーニ、(B)はニャアンやカンチャナがそれぞれ当てはまります。(C)に当てはまるのは今のところマチュだけです。
強いて言えば、ニャアンはマチュやシュウジと出会い、キラキラを体験したことで(B)から(C)にい移行しつつあると言えます。また、シュウジやシャリアも(C)に当てはまるキャラクターだと思いますが、彼らは自分たちが置かれた環境への葛藤がそこまで描かれていないのでストーリー上の役割として薄いとも言えます。
マチュはサイド6から地球に来たことで「恵まれた環境」を自ら捨てました。しかし、それでもなお自由を得ることはできていません。それは「環境を変えれば自由になれる」という彼女の意識がいつの間にか変わってきているからです。
マチュはシュウジとの出会い、キラキラの体験を経て、そこに「自由」を感じました。キラキラはシュウジがいなければ体験できません。だからこそ、自分に自由をもたらしてくる存在としてシュウジを意識し、それを「本物の恋」だと認識するようになったわけです。
つまり、いつの間にか自由を得るための条件に「本当の自分を認め、守ってくれる人が隣りにいてくれること」という条件が追加されていたわけです。
このことは、ニャアンを見ていてもわかります。ニャアンもまた最初は(B)「不自由な環境」に不満を抱くも、そこを脱するすべを持たないものの位置づけでしたが。マチュやシュウジとの出会い、そしてキラキラの体験によって「自由」を実感しました。
その後、キラキラを体験したときの自分を「本当の自分じゃない」と否定しますが、シュウジはそんなニャアンを「好きだ(とガンダムがいっている)」と表現してくれました。「本当の自分」を受け入れてくれ、また第七話など自分が危ない場面では守ってくれるシュウジに恋心を意識するようになったわけです。(私はこれもまた、マチュと同じで本当の恋ではないと思っていますが)
そのように考えると、なぜニャアンが第七話のゼクノヴァ直前に、急にシュウジに抱きついて「一緒に逃げよう」と言ったのか説明がつきます。「環境を変えること」「本当の自分を受け入れ、守ってくれる人と一緒にいること」の2点が満たされることで、自由が得られると考えたから、そのように言ったわけです。
その後、第八話でニャアンはシュウジに代わる、キシリアという庇護者を得ました。彼女は本当の自分(サイコミュを動かせる、ニュータイプとしての自分)を求めてくれる存在であり、同時に自分を守ってくれる存在でもあります。
サイコミュを搭載している=乗ればキラキラ(自由)を体験できるジフレドを「キシリア様と似ている」と表現したことも、これで説明がつきます。どちらも自分に自由を与えてくれる条件を満たしてくれる存在という意味で、ニャアンにとっては「似ている」と言えるわけです。
マチュがシャロンの薔薇を探す理由
一方、マチュもまた一足先にニャアンと同じ認識に達していたわけですが、肝心のシュウジがいなくなってしまいます。そのため、シュウジ(赤いガンダム)を探すためには、彼が探していた薔薇を見つける必要があると考えた結果、今回のような行動を起こしているわけです。
つまり、マチュにとっては自由を得るための条件として、
- 環境を変える→達成済み
- 本当の自分を受け入れ、守ってくれる存在がいる→シュウジは行方不明→シャロンの薔薇を探す
という動機づけが成立していることになります。
ララァが自由になれない理由
では、ララァはどうでしょうか。彼女は「環境を変える」「本当の自分を受け入れ、守ってくれる存在がいる」という2点については理解しています。だからこそ、自分を宇宙に連れて行ってくれるであろう「赤い士官服の男」を待ち続けているわけです。
しかし、マチュが「それは夢の話でしょ」と言っているように、すでに戦後5年を経たのにも関わらず、彼女を迎えに来てくれるはずの男は未だ現れていません。ここで、自由を得るための条件として、もうひとつ追加のものが浮かび上がってきます。
先に触れた「渡り鳥=想像力がヒトの可能性を広げるという比喩」は、裏返すと「ヒトは自分自身の想像力が、可能性のボトルネックになってしまう」ということにもなります。ララァは夢で「向こう側の自分」が辿る足跡を見ていますが、そのすべてに「赤い士官服の男」が登場しています。
それは彼女にとって「自分を自由にしてくれる救い」でもありますが、逆に言えば、彼女が「赤い士官服の男との出会い」にこだわり続けている限り、自由を得ることはできない、ということにもなってしまいます。実際、「向こう側のララァ」は、何度繰り返しても「白いMSの彼に赤い士官服の男を殺される」という運命からは逃れることはできませんでした。
ララァが自由を得たいのであれば「赤い士官服の男」との出会いを待つのではなく、別の選択肢を選ぶという方法もあります。しかし、夢見で「向こう側の自分」を何度も見ている彼女にはそうした想像力が働きません。それが結果的に彼女から自由を奪う足かせになってしまっているわけです。
このことは、マチュもまたシュウジにこだわり続けていると、それによって想像力が縛られ、自由を失ってしまうという危険性を示唆しているのではないでしょうか。
ジークアクスは「マチュの望みを叶えるMS」
マチュはララァと分かれる際、「待ってよジークアクス、あなたがここに連れてきたんじゃないの?」と語っています。これを字面通り捉えるなら、謎のメッセージは「ジークアクス自身」によって発せられたと見るべきでしょう。
第五話でも、マチュが「ジークアクスに乗ってると、世界のほうが私に応えようとしてくれる」と言ったのに対して、シュウジが「それは彼がそうしろと言ってるんだよ」と応えています。彼=ジークアクスだと考えると、ジークアクスは「パイロットの望みを叶えるMS」だと推測できます。
マチュ、憧れの海へ
飛行するコア・ファイターはインド洋上へ。マチュは念願だった「本物の海」を目にしますが、低いテンションで「泳ぎたかったな」と呟くだけです。このシーンから「マチュはもう、地球にも自由がないと理解していて海への憧れも失ってしまっているのだ」と解釈する人もいますが、私の考えは違います。
先に述べたように、マチュはすでに環境を変える=地球に来るだけは自由が得られるわけではないと知っています。海への憧れはシュウジと出会う以前からのものだったので「泳ぎたい」という気持ちが消えたわけではないものの「今海で泳いでも、隣にシュウジがいないのでは本当の自由は得られない」と考えているからこそ、テンションが上がらなかったのでしょう。もっと単純に、ララァを連れてこれなかったことを残念に思っているのも理由になっているはずです。
引き上げられた「シャロンの薔薇」
コア・ファイターはそのまま、落下した海中のジークアクスまで移動。そして、そこには探していたシャロンの薔薇もありました。マチュは薔薇の中に「ララァに似た誰か」が眠っているのに気が付きます。
ジークアクスとマチュは降下してきたソドンによって再び捕らえられます。シャロンの薔薇はジオン軍によって海中から引き上げられ、シャリアとコモリの前に姿を現しました。シャロンの薔薇の正体は、ジオン軍が開発を中止した「この宇宙では存在しないはずの特殊なモビルアーマー」でした。その内部は時間的に凍結した状態で「向こう側から来たニュータイプ=ララァ」が登場しています。
その姿は、ファーストガンダムの登場するエルメス(ララァ・スン専用モビルアーマー)とまったく同じ姿でした。
エルメスは、アニメ『機動戦士ガンダム』に登場する架空の兵器である。
第39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」で初登場した。
ジオン公国のフラナガン機関が開発したニュータイプ専用モビルアーマー。
https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9(MA)
コモリは「屈折して見える」と語り、シャリアは「この世界では存在が不安定なのでしょう」と応えています。この宇宙では存在しないものである以上「別の宇宙から来た」ということを前提に会話しているわけで、これはキシリアをはじめとするジオン上層部の認識とも一致しているはずです。
シャリアはまた「大佐もソロモンで同じ少女を見たのですね」と、心のなかで続けます。
ジークアクス世界におけるシャロンの薔薇が「存在しないはずのMA」になっているのは、シャアのガンダム奪取が関係しています。赤いガンダムにアルファサイコミュとビットが搭載されたとき、シャアは「試作アルファ型のサイコミュを無理を言って積み込んでもらった」と語っています。これはおそらく、元々は「ジークアクス世界で開発されるはずだったMA」に搭載予定だったサイコミュを、赤いガンダムに転用したという意味でしょう。
第一話~第九話を振り返る
物語の核心だった「シャロンの薔薇」の正体が明らかになったところで、ここからは第一話~第九話までの流れを振り返り、新たに仮説が立てられたところや疑問が深まったところを洗い出してみましょう。
第一話「赤いガンダム」
マチュは「本物」が知りたい
マチュの行動原理について最初に触れられたのは、逆立ちしてプールに落下するシーンです。「コロニー生まれの私たちは、本物の重力も本物の空も知らない」と語っています。ジークアクスやシュウジと出会う前の、根本的な彼女の行動原理は「本物」を知りたい、というところからスタートしています。
マチュにメッセージを送ったのはジークアクスか?
マチュは地下鉄で謎のメッセージを受け取り、ニャアンと出会ったところから物語が始まります。「ジークアクスが自らの意思で、マチュを導いているのではないか」という仮説が立てられた今となっては「ジークアクスがイズマコロニーに近づいたから、マチュを自分に乗せるためにメッセージを送ったのではないか」とも考えられます。
キシリアの目的はシャアとシャロンの薔薇
シャリアと彼の部隊の目的は、赤いガンダムの捜索でした。より厳密には「姿を消したシャア・アズナブルとシャロンの薔薇を探すこと」です。シャリアの言葉でも「キシリアはシャアをジオンの忘れ形見だと疑っている。それを確かめるためにここまで来た」と語られています。その後、シャリアとキシリアがマチュ・ニャアン(オメガサイコミュを動かせるパイロット)を確保していること、シャロンの薔薇を捜索していることからもそれがわかります。
ミノフスキー粒子をばらまいたのはシャリアか?
エグザべが最初にジークアクスで赤いガンダムと戦ったとき、周辺中域にはミノフスキー粒子がばらまかれていました。エグザべはこれをシャリアの仕業だと考えていましたが、本当にそうかどうかは劇中でははっきりしていません。シャリアがおこなっていた可能性もありますし、そうでなくてもゼクノヴァが「ミノフスキー粒子の相転移」を伴う現象であることがわかった今となっては「人為的にゼクノヴァを起こそうとしていた」とも考えられます。
「スペースノイドの自由」が作品のテーマ?
「ジオンが戦争に勝っても、スペースノイドは自由になれない。いつまで経っても苦しいままだ」というアンキーのセリフについては、過去の考察でも触れています。第九話でシャリアが語った「スペースノイドの自由のためとはいえ、大きすぎる犠牲でしたが~」というセリフと合わせて考えると、「どうやったらスペースノイドは自由を得ることができるのか」という点が、作品の重要なテーマになっている可能性が高まったと言えます。
ハロはジークアクスの言葉を代弁している?
ハロは元々カネバンにいたロボットですが、マチュと出会って以降はいつの間にか徐々に彼女の持ち物のように扱われるようになりました。最初はマチュの「空って、自由ですか」という言葉に反応して「自由、自由」と応えたのに始まり、ザクにインストーラーデバイスを入れようとした際は、デバイスの挿入箇所を教えるのなど「マチュをジークアクスに乗せるため」かのように振る舞っているのが印象的です。第九話に至っては、もはやジークアクスの気持ちを代弁している端末ではないかとも考えられるほどです。
第二話「白いガンダム」
連邦の技術水準はなぜ高い?
シャロンの薔薇を入手したジオン側の技術革新(特にサイコミュ絡み)が著しいのは納得できます。しかし、ガンキャノンがビーム砲を装備しているなど、連邦側も明らかに技術水準がファーストガンダムのそれよりも高くなっていることについて、明確な理由はまだ描かれていません。過去の考察でも触れたように「インストーラーデバイス=教育型コンピュータであること」や「V作戦のコアデータが失われていること(詳細がファーストガンダムのそれと同じかはわからない)」など、謎は残されています。
第九話では「白いMSの彼」の存在がほのめかされていますので、そのあたりでなにか違いが生じているのかもしれません。(たとえば、父のテム・レイを手伝い研究者の道を歩み、ガンダムの設計に関わっているなど)
シャアはシャロンの薔薇の存在を知っていた?
シャアはマリガンとの会話で「私一人で戦局が変えられるものではない」と言っていましたが、その後フラナガンとの会話を経て、徐々にニュータイプの可能性を信じるようになっていきます。シャリアと出会った段階では、アルファサイコミュを搭載した赤いガンダムが戦局を変える切り札になる、と明確に考えていました。
なぜそこまでの確信を持てるに至ったのかを考えると、シャアはシャロンの薔薇の存在をすでに知っていた(フラナガンを通して知っていた)可能性があるのではないかと考えられます。
シャアとシャリアの考えにはズレがある?
シャアはシャリアとワインを酌み交わし、彼を同士にしました。「ニュータイプ全体のため、ひいては人類全体のため」と自身の目的を語っていましたが、シャリアが「戦争に勝ってその後は?」と尋ねると「ヒトの心を覗きすぎるのは良くない」とはぐらかしていました。
戦後のシャリアは「平和を維持するために、その障害となるザビ家を排除する」という発想で動いています。しかし、これがシャアの目論見と同じとは限りません。特に第八話で登場したシロウズ=シャアであるのならば、彼が同士であるシャリアの前に姿を表さなかった理由も、そこに起因しているのかもしれません。
第三話「クランバトルのマチュ」
ナブとジェジーは普通にマチュを心配していた
マチュがクランバトルに出ることを快く思わず、憎まれ口を叩いていたナブとジェジーですが、これは彼らなりの優しさであり、マチュを巻き込むまいとしていたことが第七話以降で明確になりました。
エグザベとニャアンの傷
ニャアンとエグザべは、同じ日に同じく軍警から追いかけられ、負傷するという運命を辿っています。彼らの傷の位置がほぼ同じ(左目の下)であることは、彼らの共通した境遇や、キシリアに拾われるという似たような運命を暗示していたのかもしれません。
クランバトル運営の謎
クランバトルは「実況中継」というわりには、ナレーションもありません。おそらくは現実の動画配信と同じく、視聴者がコメントなどで実況するというスタイルなのでしょう。クランバトルの最中、撮影用の無人カメラなども登場しますが、どこにも人の気配は感じません。未だにクランバトルの運営が誰なのか、明確になっていないことも含めて、謎が深まる演出です。
マチュの最初のキラキラは「死を意識したとき」
第一話、第三話でマチュはキラキラを体験しますが、共通するのは彼女が死を意識したタイミングだということです。ニャアンとはトリガーとなった感情が異なっている点は気になるポイントです。
第四話「魔女の戦争」
ソドン駐留に苛立つ軍警
エグザべを開放したにも関わらず駐留を続けるソドンに、チャイチとワードは苛立ちをつのらせます。地位協定反対デモを前に、自分たちサイド6がジオンの身内争いに巻き込まれようとしている、と危機感を募らせます。それが第六話のエグザべ襲撃につながっていくわけです。
「普通でないもの」に憧れるマチュ
マチュは母タマキとシイコを比較し「普通ではない」シイコに憧れの感情を抱いていました。これ以前のマチュが「本物」に対する憧れが根源的な欲求として持っていたこと、第八話のニャアンのセリフ=「マチュは本物だから」という言葉から、ジークアクスにおける「本物」とは「普通」の対義語として使われていることがわかります。
「普通」=本物ではないもの・偽物
「本物」=普通ではないもの・特別
という意味合いで使われているわけです。
ニャアンが仕事を欲しがった理由
ニャアンはマチュ・シュウジが地球へ行こうと言い出すと、仕事を増やしてほしいとマーコに伝えています。マチュはお金は心配ないとは言っていますが、彼女自身は最初にインストーラーデバイスを貸していこうは見守る立場なので、貸しを作らずに友達についていきたいと考えていたのでしょう。
赤いガンダムの向こうにいた誰かとは
シイコとシュウジが最後に起こしたキラキラで、マチュは「赤いガンダムの向こうにいる誰か」に気が付きます。第九話でララァと会合したとき、「私はこの人を知っている」と語っていますから、赤いガンダムの向こうにいた誰かとは、ララァ(シャロンの薔薇にいる向こう側のララァ)だったことがわかります。
第五話「ニャアンはキラキラを知らない」
シャリアがエグザべを泳がせた理由
この回以降、シャリアはエグザべの単独行動を許可していますが、のちの展開から「キシリアのスパイである彼に、情報機関と接触する機会を与え、自身を疑うように仕向ける」ことが目的だったと推測できます。真面目なエグザべに、一旦自分を疑わせておき、その上で疑いを晴らす働きをすることで、キシリアからのスパイ容疑を払拭する、という公算だったのでしょう。
「世界が自分に応えようとしてくれる」の意味
「ジークアクスに乗ってると、世界のほうが私に応えようとしてくれる」というマチュのセリフがありました。これに対するシュウジのセリフは「それは彼がそうしろと言ってるんだよ」というものでした。ジークアクスが意思を持って自ら動いているということがはっきりした現在となっては、その言葉の意味も文字通り「ジークアクスはパイロットの意思を実現しようとするMS」であると受け取れます。
ニャアンのキラキラと、マチュとの違い
マチュは「死の危険」によってキラキラを起こしていましたが、ニャアンは「虐げられた恨み(第八話より)」によってオメガサイコミュの起動、キラキラの発言に至りました。キーとなる感情が、マチュとはまったく異なっているところが大きな違いです。キラキラの色もマチュの緑とは違う、紫色でした。
第六話「キシリア暗殺計画」
「普通」になることを求められるマチュ
ニャアンがキラキラを知ったことで、シュウジとのキラキラはマチュだけの特別なものではなくなってしまいました。後半ではナブから「明日からは普通に学校に行って、普通に勉強しろ」と直接的な言葉で、「普通」になることを求められています。このことがマチュを追い詰めていったことは間違いありません。
ソドンがサイド6駐留を続けた理由
シムスとシャリアの会話を聞いたコモリの視点で、視聴者もキシリアがサイド6に来訪することを知ります。軍警にもずっと不審に思われていたソドンのサイド6駐留ですが、赤いガンダムやジークアクス捜索だけでなく、キシリアの護衛も兼ねていたことが判明します。第七話での描写から「オメガサイコミュを動かせるニュータイプを見つけること」も、目的に含まれていたことがわかります。だからこそ、キシリアもシャリアの策を許容する態度を取っていたのでしょう。
シャリアはポメラニアンズの情報をどこから仕入れたか?
この回でシャリアはアンキーに初めての接触を図っていますが、彼はどこからその情報を仕入れたのでしょうか。コモリはシムスを疑っていましたが、ジェットパックを身に着けた単独行動をとっていた描写から、おそらく難民街のいろいろな人をニュータイプ能力を使った尋問をするなどして独自に捜査をして突き止めていたものだと考えます。
「世界は変わっていく」という言葉の意味
「そうだよ、世界はいつも変わっていく。だから書き換えなきゃ」というシュウジのセリフは謎が多い言葉です。次の回でゼクノヴァが起きていることから「ゼクノヴァによって世界が書き換えられる」という意味とも取れます。このセリフの謎を解き明かすにはもう少し材料が必要でしょう。
第七話「マチュのリベリオン」
クランバトルの主催の謎
過去の考察でも取り上げましたが、この回はクランバトルの主催についての謎が大きく深まった回です。リスポーン地点の変更は、ポメラニアンズにとってもドゥー・ゲーツにとっても予想外のことでしたが、結果としてキシリア暗殺の障害が増えることになったので、それを阻止しようという意図が隠されていた可能性もあります。
ミノフスキー粒子がコロニー内に散布された結果、マチュとニャアンの合流は難しくなり、ゼクノヴァが起きる原因にもなりました。マチュがテロリストとして指名手配された原因も、これが影響しています。
運営に噛んでいるらしいサイド6政府も、事態をまったく把握していなかったことから、別の勢力の意図が働いていることが予想できます。
ゼクノヴァは薔薇が起こしている
ゼクノヴァが起こる際、シュウジは「薔薇が目を覚ます(とガンダムが言っている)」と発言しています。これは第九話でマチュに届いたメッセージと同じ言葉です。シュウジはジークアクスを「彼」と表現していますので、ジークアクスと赤いガンダムはそれぞれのサイコミュを通じて「シャロンの薔薇」とつながっていることが示唆されています。
また、シュウジはゼクノヴァで消える直前「向こう側が見える」と言っています。彼がどこに消えたのかも残された謎です。加えて、ニャアンはゼクノヴァを間近で見てはいますが、マチュのようにララァの存在は見ていません。
ガンダムと会話するシュウジを後追いするマチュ
第三話の時点では「~とガンダムが言っている」というシュウジの口癖を、マチュはまったく信じていませんでした。この回から、無人で動いたジークアクスに助けられたことで、マチュはジークアクスと当たり前のように会話をするようになります。
マチュの「やるべきこと」とは?
シャリアは「怒り」に飲み込まれようとするマチュを助けようとします。このときジークアクスの眼もニャアンのキラキラと同じ、紫色に変化しいています。シャリアはマチュへ「あなたにはまだやるべきことがあります」と語っていますが、これは第九話のララァとまったく同じセリフです。マチュのやるべきことは、さしあたっては「シャロンの薔薇を探すこと」であることは、第九話で明らかになっています。
第八話「月に墜(堕)ちる」
ソロモンで起きたゼクノヴァ
第九話でシャロンの薔薇の正体が明らかになったことで、ソロモンで起きたゼクノヴァの背景もある程度クリアになりました。あのとき、シャアは瓦礫に埋もれていて脱出は難しい状況でした。そのままであれば死は避けられないという状態だったため、彼を生かそうとして「向こう側のララァ」がゼクノヴァを起こした、と考えると辻褄が合います。シャアからも「向こう側から来たというのか」というわかりやすいセリフがあります。
シャアは自分の運命を見たのか?
シャアはゼクノヴァの際、「刻が見える」と語っています。これは自分の運命(=白いMSの彼に必ず殺されてしまう)が見えた、という意味ではないでしょうか。だとするとこの時点でシャアの目的が「自分の運命を変えること」に切り替わった可能性があります。そうであれば、もしゼクノヴァ後、どこかで生きながらえていたとしても、シャリアに接触しなかった理由も説明がつきます。(シャリアの目的=平和を保つこと、と差異が生じてしまうため)
キシリアがニャアンに求める「強さ」
キシリアはニャアンとの会話で「強くなること」を求めています。ニャアンのキラキラは「虐げられた恨み」を根源とするものでしたが「それ以上に強くなること」を求めているわけです。これは彼女がニャアンに求める役割(=ゼクノヴァを起こすこと)において、恨みではなく別の感情がキーになることを示しているからではないでしょうか。そしてそれはおそらくマチュが持っている才能と同じものでしょう。
ディアブロとはなにか?
「ディアブロとはなにか」まだ判明していませんが、私は「ニーチェの『超人思想』のように、人間を超えることで人間性を捨て去ったニュータイプ」ではないかと考えています。ミゲルの言葉から、ニャアンはすでにその資質を発現させていると考えられます。
実際、ニャアンは生き残るためなら友人を盾にしたり、見捨てることも厭わないなど、すでにそうした片鱗を見せています。ただし、前述のようにキシリアが彼女に求める強さは、そういった種類のものではないと考えます。それは同時に、キシリアが「善玉」である証拠にもなっていると思います。
第九話ラストの、第十話次回予告で登場したギレン・ザビは、ファーストガンダムのときとほぼ同じキャラクターデザインをしていました。これは彼の人間性がファーストのそれと殆ど変わっていないことを示す演出ではないでしょうか。だとすると、むしろ彼のほうが「ディアブロ」であることを求めているのかもしれません。
ジークアクスが描こうとしている「ニュータイプ像」とは?
第四話では、同じような意味でシイコが「選ばれしもの(望むものすべてが手に入る)」という言葉を使っています。
これらから類推すると「本物のニュータイプは、選ばれしものであり、望むものすべてが手に入る」と言えるのではないでしょうか。
シャロンの薔薇=「向こう側のララァ」の望みとは?
シャロンの薔薇は、存在しないはずのモビルアーマーと「向こう側のララァ」がセットになったオブジェクトです。ジークアクス世界のララァの言葉から、彼女はシャアを救うためにゼクノヴァを何度も繰り返し、結果として作り出した「自分の望む世界=シャアがアムロに殺されない世界」に、自ら転移したきたのではないか、と考えられます。
この「自分が作った世界に、作者自身が入ってくる」という構造は、別の作品にも見られます。私がジークアクスの元ネタだと考えている「高い城の男」の、続編になる可能性があったともされる作品「ヴァリス」においても、似たような展開が描かれています。
1971年カリフォルニア。主人公のSF作家ホースラヴァー・ファットは、友人の自殺を切っ掛けに現実を喪失しはじめる。薬物依存と精神衰弱の果て、ついに、1974年3月、ピンク色の光線を額に照射される(と主人公ファット自身が解釈した神秘体験をする)。ピンク色の光線は、ファットにとって神的啓示を含む高密度情報として知覚され、そこで得た情報の一部にもとづき、現実に息子の先天的疾患を発見する(してしまう)。
このことで、ピンク色の光線(のちに、”超越的な理性的精神”、”キリスト精神”、また、”Zebra”、”God”、”VALIS”などと多様・多重にパラフレーズされる)の神秘体験が幻覚ではないと考えるようになり、情報の配置によって生成される宇宙についての理論や、「神」についての独自の神学を日誌に書き綴るようになり、これを『釈義』や『大ソビエト図鑑』などと名付け、友人たちと他愛もない論争にふけるようになる。
しかし、ある映画……作中(同名)映画『VALIS』(エリック・ランプトン作)……を観たことで事態は変容する。同映画にはサブリミナル効果と暗号によるメッセージが隠されていた。ファットが独自のものと考えていた自らの神学と同じ情報の源泉に触れた人間にしかわからない(VALISからのピンク色の光線を照射された者にしかわからない〈とされる〉)メッセージを直感し、友人たちと同映画を制作した小さなカルト団体を訪れる。
そこでは3人の団体員が、怪しげな研究と実験に耽っており、なにやらVALIS(ここでのVALISの意味は、グノーシス的牢獄宇宙に派遣されたキリスト精神の意味に変容する〈詳細には三位一体のうちの聖霊としての意にさらに変容する〉)の理解に到達し、さらには、真の神を誕生させることにも成功したと語る。そして、救世主,キリスト,神などといった称揚とともに、ファットたちをついにその真の神と邂逅させる。
それはソフィアと名付けられた一人の少女だった(必ずしも人間の少女ではなく、少女型AIとも、少女型の神だとも推理がなされるが明示的ではない)。
訝しみながらも、ソフィアの語る言葉に耳を傾けるうちに神を確信するファットたちであった。やがて、ファットは、自らがディックであったことを想起することに成功する(統合失調・精神分裂・記憶喪失の治癒:主人公ホース・ラヴァー・ファットは、作者フィリップ・K・ディック自身であると明示され、この『VALIS』という小説自体が、ディックの自叙伝じみたものであるというメタ構造が明かされる〉)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%82%B9_(%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BBK%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
しかし、「向こう側のララァ」は茨のようなもので縛られ、時間凍結していると語られています。これはジークアクス世界のララァが語ったように「何度繰り返しても、シャアは助からない」という運命に縛られてしまっていることを視覚的に現したものでしょう。
補足すると、私は「向こう側のララァ」が、いわゆる「ループもの」の設定のように「何度も人生をやり直している」とは考えていません。もちろん、そういう解釈も可能ですが、宇宙世紀のガンダムには「全体」という設定があり、ニュータイプは人々の残留思念が集まるアカシックレコードのようなものにアクセスできるとされているからです。
刻とは、この世界の歴史が保存されたアカシックレコードのようなものである。
ララァ・スンやシャア・アズナブルなど、死ぬ間際に「刻が見える」という台詞は印象深い。
『不死鳥狩り』によれば、高次元にある全体にとって刻は千年、万年、億年の時間が積層されようと、それを並列して見渡せるのだという。
https://dic.pixiv.net/a/%E5%85%A8%E4%BD%93%28%E5%AE%87%E5%AE%99%E4%B8%96%E7%B4%80%29
「向こう側のララァ」は「何度も人生をやり直している」というよりも、「全体」とつながり、刻を見る中で「起こり得る可能性」を垣間見てきた、と表現するほうが正しいと考えています。
「運命に縛られるララァ」も否定しない
この「己の運命に縛られて自由になれない」という構図は、ジークアクス世界のララァにも見られるものです。ララァは自身が見た「向こう側の自分」の夢に縛られ、いまだ会ったこともない「赤い士官服の彼」が自分を迎えに来てくれるのを待ち続けています。
マチュについて宇宙に行く、という選択肢があったにも関わらず「彼を待たなきゃ」と待ち続けることを選びました。もちろん、マチュについて行ったからといって自由になれる保証はどこにもないのですが、それはマチュ自身においても同じことです。「シャアと出会って本当の恋をする」という、自分自身の運命に縛られて自由になれないことが得がれているわけです。
ただ、ララァが「運命に縛られて自由になれないから、不幸な人なのか」と言われると、必ずしもそうとは言い切れません。自由になれないという意味では、ジークアクスに登場するすべての人がそうであるとも言えます。(実際にアンキーの言葉で「スペースノイドは自由になれない」と語られてもいます)
自由を求めるマチュはもちろん、彼女のように行動しないヴァーニも、カンチャナも、そしてララァであっても、彼女たちの生き方すべての否定せず、平等に描いているところがジークアクスという作品の素晴らしいところだと思います。自由を求める選択も、今ある環境や自分の運命の中で生きようとする選択も優劣はなく、あくまで選択の問題であるとして描いているわけです。
「自由」かどうかは本人の主観のみによって決まる
こうした描かれ方の背景には、鶴巻監督の次のような考え方が強く反映されていると感じます。
マチュや他のキャラクターの描き方を見ていてもわかることですが、ジークアクスでは「その人が不自由を感じるかどうか」について、客観的にではなく「当事者の主観のみによって」描こうとしています。他人から見て「恵まれた環境にいる」と思えたとしても、それはあくまで周囲の評価にすぎません。「不自由を感じるか」は主観的な問題であって、そう感じる人がいたとしても「贅沢だ」といった断定的な評価をしないのが、非常に良いところだと考えています。
当事者の感じ方を尊重する姿勢が感じられるからです。
ララァは想像力で可能性が縛られている
ただし「ララァが自由になる方法はないのか」と考えてみると、方法はないわけではありません。
ララァがマチュに最初に語りかけた「渡り鳥」のシーンについて、先に「想像力が人の可能性を広げる」という比喩であるとの説明をしてきました。その視点に立つと「向こう側のララァ」は「シャアと出会って自由になる」以外の選択肢を思いつかないという時点で、自分の想像力がボトルネックになって自由を得られていない、とも言えます。
実際、ファーストガンダムを見ている視聴者の目線からすると「シャアがアムロに殺されない世界」は存在することがわかります。他ならぬ「機動戦士ガンダム」はTV版も劇場版も、シャアはアムロに殺されていないからです。代わりに、ララァがアムロに殺されることになりますが。
つまり「向こう側のララァ」は「自分の命を犠牲にしてシャアを守る」という選択は、自身の想像力がボトルネックになってしまっていて、考えることができない状態にあると言えます。
マチュが誰よりも自由な理由
ともかく、これによってマチュが求める「自由」を得るための要件③が新たに明らかになりました。
①環境を変える
②本当の自分を認め、守ってくれる人が隣りにいてくれること
③自分自身の想像力の枠を広げる
ニャアンと比較すると、マチュはこの③の資質は誰よりも持っていることがわかります。劇中の登場人物だと、ほかにはシャアやシャリアも③の資質を備えていそうですが、それでもやはりマチュがずば抜けて持っている資質だと言えるでしょう。
また「本物」=普通ではないもの・特別という意味だとすると①~③は次のように言い換えることもできます。
①「本物(特別)」な環境に身を置く
②自分を「本物(特別)」だと思ってくれる人がそばにいる
③自分自身の想像力の枠を広げる
マチュに関して言えば、自分を「本物」だと思ってくれる相手、という意味では、シュウジよりもむしろニャアンと一緒にいるほうが自由を得るには近道である、とも言えます。
イオマグヌッソの正体とは?
第十話次回予告では、イオマグヌッソの正体について「地球環境修復用のソーラレイ」または「巨大レーザー衛生砲」と表現されています。これは「使い手によって、そのどちらにもなりうる」ということを示唆していると考えられます。
起動にはサイコミュ、そしてそれを扱えるニュータイプが必要であることや、シャロンの薔薇が必要だることも合わせて考えると、私はスーパーロボット大戦シリーズなどに登場した「クロスゲートパラダイムシステム」のイメージが非常に強く浮かんできます。
クロスゲート・パラダイム・システムとは、『バンプレストオリジナル』のシステム。
ユーゼス・ゴッツォが作り出した『限定因果律操作装置』。以下、CPSと略称する。『時空間跳躍装置』とも呼ばれる一種のタイムマシンとも言うべき装置であり、因果律を計算してタイムパラドックスを排除した状態の並行世界を創造する(結果的にはタイムスリップと同様の結果をもたらす)機能を持つ。分かりやすく言えば、限定的ながら「存在しない事象をあったことにする」機能と「存在する事象をなかったことにする」機能がある。
https://srw.wiki.cre.jp/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
このシステムは「使い手の望むままに世界を変えられる」というものです。そしてそれを作るためには「超常的なエネルギー」「起こり得る事象すべてを計算できるコンピュータ」「それらを使いこなせる超能力者」といった因子が必要になるものです。
「クロスゲート・パラダイム・システム」を元に、わかっている範囲で、イオマグヌッソがどのようなものなのか想像すると次のようになります。
- 資質を持つニュータイプが操者として、サイコミュを通じて「シャロンの薔薇」とつながる。
- 「シャロンの薔薇」を通じて、操者は自らの望む世界を作るためにゼクノヴァを起こす。
- ゼクノヴァによって、望みに合わせて世界が改変される。
いわば、イオマグヌッソは持ち主の望みを叶えるとされる聖杯のようなものです。
イオマグヌッソは誰の手にわたるか?
これは捉え方次第で、非常に危険なものになります。特に、ニャアンのように「恨み」が原動力になっているニュータイプが操者になった場合、世界は非常に大きなリスクを抱えることになります。恨みの矛先がどこに向くかによって、どんな犠牲が生じるかわからないからです。
イオマグヌッソを使おうとしている人物の候補としては、ギレンとキシリアがいます。ギレンはおそらく「巨大レーザー衛生砲」として、キシリアは「地球環境修復用ソーラレイ」として使おうと考えているのでしょう。(キシリアの方は「シャアに使わせたい」と考えている可能性も少しあると考えています)
また、もしシロウズの正体がシャアであるなら、彼もまたイオマグヌッソを使おうと考えている可能性があります。その場合、私はシャアの目的は「全人類をニュータイプにすること」だと考えています。シャアがシャリアに語った「ニュータイプ全体、ひいては人類全体のため」という目的にも合致しますし、逆襲のシャアでアクシズを落とそうとした理由も「すべての人を宇宙に出し、強制的にニュータイプへの進化を促そう」と考えていたからでした。そのために人々に犠牲が出ることになるなら、そのときはシャリアと意見の対立が生じる可能性もありうるでしょう。
イオマグヌッソが私の予想するようなものなら、マチュにそれを使ってもらうのが最も好ましい結果につながるのではないかと考えています。