歌舞伎町のホテル支配人のクレーム対応から考えるマーケティング

新宿歌舞伎町で、長年ホテル支配人を勤めた三輪康子氏。「歌舞伎町のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれる人物で、クレーム対応に関してさまざまな「伝説」があります。今回は、三輪さんのクレーム対応に関する逸話を題材にマーケティングとセールスの違いについて考えてみましょう。

「うるさくて眠れない」というクレームへの対応

新宿歌舞伎町は、日本有数の繁華街です。酔っぱらいや暴力団員など、危険な人も多く、そういった環境下でのクレーマー対応は一歩間違うと命の危険があります。三輪さんは、そうした中で危険な顧客にも毅然とした対応を行い、ホテルの運営を成功させていきました。三輪さんの逸話は色々ありますが、最近テレビで紹介されて話題を呼んだのは次のような逸話です。

「エレベーターの乗降客がうるさくて眠れない」と客からクレームがあった。

三輪さんは「自分が一晩中エレベーターの前に立って、乗降客に注意し続ける」と答えた。

あとで様子を見た客が三輪さんの対応に感心し、「また泊まらせてもらう」と告げてホテルを後にした

詳しくは、こちらのサイトに記事があるので参照してみてください。三輪さんに関する詳しいエピソードも解説されています。

参考:エッセー連載中—歌舞伎町のジャンヌ・ダルク

SNSなどでは、対応に否定的な意見が主流だった

このエピソードは、2017年5月8日放送の「好きか嫌いか言う時間(TBS)」で取り上げられ、SNSなどでも大いに話題を呼びました。主な意見としては、

  • 一人の客のために一晩中働くなど過剰労働である。こうしたサービスを肯定すると「ブラック労働」を奨励することにつながりかねない。
  • 「エレベーターの前に張り紙を貼る」など、もっと簡易な方法で対応すべきだった。
  • このようなクレームに対応したところで、「面倒な客」に評価されるだけであり、将来的にはかえってマイナスの影響がある。

というふうに、否定的な意見を持つ人が多数見受けられました。一方、対応に対して賛否の表明なし、あるいは肯定的な意見としては、

  • 「うるさくて眠れない」というクレーム自体は理不尽なクレームではない。対応が難しければその旨を伝えて納得してもらうか、返金して帰ってもらえばいい。
  • 本来は「歌舞伎町という危険な場所で、『お客様に安心してもらえるホテル』をつくる過程」の話であり、テレビ番組の取り上げ方が悪い。
  • 是非はともかく、サービス業としてクレームには何らかの対応をしなければならない。他の方法があったかどうかはともかく「対応したこと」自体は間違いとはいえない。

といった声もありました。

当ブログは、マーケティングについて語るブログですので、この対応自体の是非については特に論じません。「この対応の論点はどこか」、「マーケティングの観点からこの対応を見ると、どのように捉えられるか」という点について考えてみたいと思います。

上で紹介した記事の内容を参考にすると、三輪さんは以下のような目的のために行動していたことがわかります。

「安心・安全なホテルを実現するため」に、「怒鳴られたら、やさしさをたった一つでも多く返す」という対応を貫いた。

これは三輪さんの「経営理念」とでも言えるようなものです。そして三輪さんはこの理念を実現するために、

自らが率先して「怒鳴られたら、やさしさを返す」を実践する(エレベーターの前に一晩中立つ、のように)。それによって、

  1. 従業員も同じように考え、行動してくれること
  2. お客様にも自分の気持ちが伝わり、ホテルの評価につながること

この2つを目指していた。と考えられます。

三輪さんの目的は「自身が『理念』を実践し、それが部下とお客様に伝わること」であったと考えられます。実は、これは本質的にはマーケティングであるといえます。わかりやすくするためにマーケティングとセールス(販売)を比べてみましょう。

  • セールス(販売)・・・コスト(費用・時間・労働力)に対して、成果(売上・利益)がある
  • マーケティング・・・コストに対して、成果(知名度アップ・売上向上・ブランド力向上)がすぐにはわからない

三輪さんは、本来は行わなくてもいいような理不尽なクレームに対してもあえて対応してきました。このことから、「成果に対してコストを度外視した行動である」とわかります。また、「『やさしさを返す』ことで、従業員やお客様の気持ちを変える」というのはすぐに成果がわかることではありません。従業員の気持ちが変わり、それが接客の姿勢に反映される→それを受けてお客様の満足度が高まり、リピーターにつながる、といったステップを踏む必要があるからです。よって三輪さんの行動はコストと成果を天秤にかける「セールス」ではなく、すぐに成果がわからない「マーケティング」であったと考えられます。

三輪さんが行ったマーケティング活動の成果は、短期的にはわかりませんでしたが、その後「歌舞伎町のジャンヌ・ダルク」などという異名を持つほどの実績を上げたことから考えると、長期的には十分すぎるほどの成果を上げたと考えていいでしょう。

このエピソードから学ぶべきことは「マーケティングとセールスにかけるコストを混同してはいけない」ということでしょう。三輪さんのとった行動は、1従業員が1顧客に対して行うものとしては、明らかに過剰なものです。従って、形式化されたサービスとしようとすると多く方が指摘しているとおり「ブラック労働の推奨」になってしまうでしょう。

しかし、一方でこうした「やさしさを返す」取り組みが長期的に三輪さんのホテルのブランド力を高めたことはまぎれもない事実です。その結果、訪れる顧客の質は高まり、従業員へのクレームによる負荷は軽減したものと考えられます。こうした長期的なマーケティング効果は決して無視できません。

マーケティングで大切なことは「できることをコツコツ積み重ねる」ということです。三輪さんほどの情熱や、自分への負担を度外視した対応は取れなくても、日々の業務の中でできることはあるはずです。そうした、「できることの積み重ね」こそがマーケティングの第一歩ではないかと思います。