映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」の作品としてのテーマは何なのか。この点について考察を進めてきました。前回までの2つの記事によって、私は「沙代は純真無垢な少女ではなく、心に闇を抱えた狡猾な殺人者である」、「ゲ謎のストーリーは、妖怪など不可思議な現象をすべて排除したとしても解釈可能なようにできている」という結論に至りました。
「視聴者が見る映像描写」がそのままイコールで「劇中における客観的な事実」であるとは限らない、という点がこの作品の面白いところであり、同時に解釈を難しくさせているところだと考えています。
今回は引き続き、残りのストーリーを紐解きながら「ゲ謎」の作品テーマについて考えていきたいと思います。
「人間の仕業とは思えない」殺人方法
水木と鬼太郎の父(ゲゲ郎)が島から帰還した後、次女・丙江が高い木の上に刺さって死んでいるのが見つかります。その無惨な死に様は、明らかに人間では実現不可能とも思える殺され方をしていました。
後に明らかにされたように、犯人である沙代が狂骨を操って丙江を木の上まで運び、先端に突き刺して殺した、というふうに解釈するのが通常は妥当であろうと思います。
しかし、私は前回の記事において「ゲ謎の劇中描写は『客観的な事実』とは限らない」「妖怪など、超常的な現象を排除しても成立するように作られている」という説を唱えました。なので、この部分についても「妖怪の力によって空中に持ち上げられた」と解釈することもできますが「何らの人為的トリックによるもの」としても解釈可能だと考えています。ただ、まだ自分の中でどういった方法で実行したのかまでは答えを出せていません。
調べてみたところ、小島正樹氏の小説「十三回忌」にて、同様に木の上で串刺しにされる殺人が行われているようです。そちらは人為的なトリックによって実行可能とのことなので、今度読んでみたいと思います。もしかしたら「十三回忌」と同様のトリックによって実行された殺人かもしれません。
ますます深まる沙代への疑惑
「M」の謎を追う水木と、自分の妻を探す鬼太郎の父はお互いの目的を話し合い、共闘することを確認します。また、水木は再び沙代と会い、龍賀家次男・孝三との面会を願い出ることになりました。
このシーンで、私の沙代に対する疑いはより深くなります。沙代は水木に自分を東京へ連れて行ってほしいと願いながらも、水木の目的である「M」の調査に役立つであろう情報提供にも協力します。一方で「自分を連れて逃げると約束してほしい、と水木に決断を迫ります。
沙代が水木に惚れているというのは本当の気持ちでしょう。しかしながら同時に「自分が水木を思っているほどには、水木は自分のことを思っているわけではないこと」も理解して振る舞っていることがわかります。だからこそ水木相手の交渉材料として、水木が知らない島へとつながる地下道の情報や、孝三との面会の段取りを引き受けたのでしょう。
単純に水木からのリクエストに答えるだけであれば「惚れた男に好かれようと必死なんだな」と解釈することもできますが、沙代はしきりに「自分を連れて東京へ逃げる」という決断の言質を水木から引き出そうとしています。沙代になにか急いで哭倉村を離れなければならない理由がないのなら、もう少しじっくりことを進めることも考えられたはずです。
現に、父親の克典は水木に「沙代をくれてやってもいい」と言っているわけですから、水木が「M」の正体を突き止め、克典の龍賀家での立場を強固にした上で正面から村を出る、という方法もありえたわけです。(もちろん、実際には克典も沙代も龍賀家の暗部について明確に走らず、母・乙米の焦りや思惑もあるため、実際にこのような展開に持っていくのは無理がありますが、あくまで当時の沙代の視点からみればこうした展開にもっていくことも十分に考えられたはずである、という意味です)
沙代自身になにか焦らなければいけない理由があるか、もしくは本気で水木に惚れていて冷静な判断ができなくなっているというのでない限り、焦って水木に決断を促す必要はなかったはずです。そして、もし「恋心で熱に浮かされていた」という説を取るなら、水木が欲しがるであろう材料を用意しつつ「自分を連れて行くと約束しろ」と迫る冷静さを同時に持つのは、彼女が極めて打算的な思考ができる状態であることを意味しているといえます。
水木が彼女を東京に連れていくことを約束すると、沙代は「うれしい!」と言って彼の胸に飛び込んでいきます。その後、広角が上がった口元だけが描写されますが、私にはこの沙代の笑みがとても不気味なものに見えました。
水木が初めて明確に「妖怪」を視認する
水木が墓場で鬼太郎の父と酒を飲み交わすシーンでは、釣瓶火という妖怪が登場し、明かりやタバコの火をつける役割を果たしました。水木が明確に妖怪を視認する初のシーンです。これより前のシーンに遡ると島での戦闘では水木は気を失っていましたし、島から帰還して目を覚ます直前には船を岸まで運んでくれた河童たちは、水木が意識を取り戻すのとタイミングを合わせるかのように姿をふっと消しています。
水木が釣瓶火を見るシーンを劇中の描写どおりでなく「超常現象を省いた解釈」で見るとすれば、
- 鬼太郎の父との接触を経て「妖怪を信じる気持ち」が強まっている
- 島での戦いを経て、心身のストレスが強い状態である
- 丙江が「人間の仕業とは思えない」状態で殺されているのを見て、ショックを受けた状態である
- 酒を飲んで酔った状態である
というふうに「目に見えないもの」が見えやすい条件を複数備えていた、という点も考慮する必要があります。鬼太郎の父が何らかのトリックを使って「釣瓶火」を演出し、水木がそれを信じたために「見えるようになった」と解釈することも可能でしょう。この場合はおそらく「妖怪」の正体は「鬼太郎の父の協力者」だと言えます。鬼太郎の父には「釣瓶火」や「河童」と呼ばれるような協力者がおり、隠れて村に潜入していて、忍者のように鬼太郎の父を助けてくれていた、というふうに解釈できる、ということです。
裏鬼道のモデルは「彼の法」集団か
翌日、鬼太郎の父と水木は沙代の手配によって次男・孝三と面会を果たします。孝三は鬼太郎の母の絵を描いているものの、どこで彼女を見たのかは覚えていない状態でした。面会の場に村長・長田幻治と彼が率いる「裏鬼道」が現れ、鬼太郎の父との間で激しいバトルが繰り広げられます。
まず、孝三についてですが、これも「超常現象を省いた解釈」をすると「島の秘密を知ったために裏鬼道によって精神を破壊され、廃人にされた」と考えられます。龍賀家の血筋を継いでいるため、殺されはせずに心を破壊されるに留められた、ということなのでしょう。
幻治ら裏鬼道についてですが、これのモデルはおそらく13~14世紀ごろに存在した宗教集団=「彼の法」集団であると考えられます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%8C%E5%BD%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E3%80%8D%E9%9B%86%E5%9B%A3
「彼の法」集団とは、髑髏本尊や性的儀式などを特徴とした宗教集団です。かつては真言立川流と同一視されていましたが、現在は無関係であるというのが定説とのことです。
「彼の法」集団は真言立川流の一派ではない、というのが現在の定説です。この辺り、Wikipedia にちゃんと解説がされていますが、真言立川流はむしろ「彼の法」集団を糾弾する立場であったものが、一種の風評被害として同一視され、その結果衰退・消滅に至ったというのが真相のようです。
https://jp.quora.com/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%B4%BE%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E9%82%AA%E6%95%99%E3%81%A8%E6%8E%92%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F-%E5%BD%BC%E3%81%AE%E6%B3%95-%E9%9B%86%E5%9B%A3
「彼の法」集団と裏鬼道には次のような共通点があります。
- 験力を宿した「髑髏」を使用する
- 他の宗派から「邪法・外道」と呼ばれている
- 男女の性愛教義があった(とされている)
幻治は狂骨を操るために髑髏を使用していました。「彼の法」集団でも次のような方法で「髑髏本尊」に験力(功徳のしるし)を宿らせるとのことです。
こうしてできた本尊を壇に据え、山海の珍味を供えて昼夜祀り養うこと八年にして[65]「髑髏本尊」は成就の程度に応じて験力を顕すという。下品に成就した者にはあらゆる望みをかなえさせ、中品には夢でお告げを与え、上品には言葉を発して三世のことを語るという[66]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%8C%E5%BD%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E3%80%8D%E9%9B%86%E5%9B%A3
裏鬼道は劇中で鬼太郎の父から「禁術に手を出した下法者」と呼ばれています。「彼の法」集団も他宗派から「邪法」と呼ばれており、この点でも共通点があります。
最後の「性愛教義があった」という部分は、「彼の法」集団については一部の研究者によって提唱されているものの確実なことはわからないようです。裏鬼道についても、劇中で直接の描写があるわけではありませんが、私は本作の視聴後、「彼の法」集団について知った際に不思議と納得がいきました。
劇中では龍賀一族が近親交配を繰り返している描写があるものの、その思想の源流がどこから来たのかは明確にされていませんでした。「霊力が強い龍賀の血を薄めぬため」との説明はありましたが、それは「M」を生み出し続けるための合理的な理由であって、「近親交配」という手段が選ばれた理由にはなっていません。たとえば厳しい修行をするとか、特別な霊力を持つアイテムを使うなど、別の方法で霊力を高める手段を取らずに、なぜ「性愛」に関連する手段を取ったのかという理由付けがない、と考えたわけです。
もちろん「色々方法を試したが結果的にそれが最適解だった」という可能性もあるでしょう。しかし、「裏鬼道にも性愛教義があり、それが近親交配という手段の着想を得るきっかけになった」と考えれば、因果関係がスッキリすると私は考えました。
ここで「幻治たち裏鬼道に仮にそうした教義があったとしても、それは龍賀一族と直接関係はないのではないか(裏鬼道は龍賀一族に『拾われた』関係であるため)」と考える人もいると思います。私は龍賀一族、なかでも龍賀時貞はたまたま裏鬼道を「拾った」わけではなく、直接の関係性がある同士だと考えています。その点についてはもう少し先で改めて述べたいと思います。
妖怪を信じる3人が見た「狂骨」の描写
幻治が狂骨を操るシーンも、私は「超常現象を省いた解釈」で見ていました。幻治が狂骨を操りだすまでは、他の裏鬼道衆も鬼太郎の父と刀や銃を用いて戦っていましたが、狂骨が登場すると急に退場します。そのことから私が幻治が狂骨を操る演出は、実際には「幻治が裏鬼道衆をひとつの化け物であるかのように自在に操り、鬼太郎の父を捉えたことの表現」であろうと考えています。それが「妖怪を信じる人々」の目線からは「狂骨という巨大な妖怪が現れ、鬼太郎の父を襲った」ように見えた、ということです。
水木は先に述べたようにすでに「妖怪を信じる」という決断をしていますから、この時点で狂骨が「見える」ようになっていても不思議はないわけです。孝三についてはすでに正気を失っていますので、言うに及ばずで、鬼太郎の父も含めて3人ともが狂骨を「見た」ことから、劇中では狂骨が暴れる描写がなされる条件が満たされていた、と考えます。
乙米×幻治のカップリングがはかどる理由
捕らえられた鬼太郎の父と水木は、幻治によって乙米の前に連れてこられます。「M」の材料が妻の血であることを知らされ、激高するも抵抗できず、2人とも捉えられるという展開になります。
多くの本作視聴者が指摘するように、幻治は妻や子であるはずの庚子・時弥とほぼ会話するシーンがありません。むしろ乙米の命を受けて、そのために動いているといえます。この時点では次期当主となるはずだった時麿がすでになく、時弥が次期当主の予定者、その後見人が龍賀製薬会長である乙米という状況ですが、時弥が当主となった場合に母親である庚子が乙米に対して「わきまえるように」と、言いなりにはならない姿勢を示しています。したがって幻治としては「妻・子である庚子、時弥を支持して龍賀の権力を掌握する」という選択肢もあるはずですが、実際にはそうせずに乙米の意向に従って動いていることがわかります。これらのことから、
- 幻治・庚子は偽装結婚であり、時弥の本当の父親は時貞である
- 幻治は裏鬼道の頭目として「乙米」に従う理由がある
- それはおそらく幻治の個人的な理由(乙米に好意を抱いているなど)である
といった点はほぼ確実と思われます。乙米は幻治が自分に従って動くことを疑っている様子がありませんし、幻治もまた庚子や時弥を心配したり気遣う様子が見られません。後のシーンで乙米が沙代に殺されたシーンで激昂していた様子からも、個人として乙米に好意を抱いており、それが行動の動機になっていたことは察しが付きます。母である乙米も沙代とほぼ同じ境遇(自分の人生を自分で決められない)であったと考えられることから、乙米×幻治の関係を水木と沙代に重ね合わせて解釈するファンもSNS上では多く見られました。
時麿の日記に書かれていた内容は?
鬼太郎の父は捕らえられ、「M」が作られる地下室に送られます。水木は土蔵に捕らえられますが、謎の少年(ねずみ男)に助けられ、彼から沙代が時麿の部屋から盗み出した日記を手渡されます。日記にはこれまでの龍賀の所業が書き連ねてあり、水木は「すべて頭に入れた」として破り捨てました。
ここでのポイントはやはり日記に書かれていた内容でしょう。私の考えは「Mの製造方法や、近親交配、幽霊族への仕打ち、Mを製造するために拉致して犠牲にしてきた人々に関すること、裏鬼道や哭倉村の住人に関することすべて」が書かれていた、というものです。もちろん、数ある日記の一部なので、断片的な情報に過ぎないでしょうが、全体を想像するには十分な情報が記載されていたと考えます。
日記を破り捨てた理由について「沙代が時貞から性的虐待を受けた記述が書かれており、沙代を気遣って破り捨てた」との説もありますが、わたしの考えは異なります。おそらく実際に記載されていたのは「乙米など、時貞の娘に対する性的虐待」や「時弥は時貞の息子である」等の記述でしょう。それもおそらく直接的な記述ではなく、ほのめかす程度のものだったのではないでしょうか。
まず、沙代自身のことが書かれていたのなら、沙代が水木に知られるのを嫌がって渡すのを躊躇するでしょうし、仮にそれを覚悟で渡したとするなら、のちのシーンで自身が時貞から性的虐待を受けていたことを水木に知られることにショックを受けていたのがおかしいことになるからです。
おそらく水木は時貞が自身の娘たちに行った性的虐待と、その理由(霊力が高い龍賀の血を薄めないため)を日記から知り、そこから「沙代もまた性的虐待をされた可能性」を推測したのでしょう。ただ、日記を破り捨てた理由は沙代のことを気遣ったためではないと思います。
この時点で水木の心は「すべてを捨てて東京へ逃げる」か「鬼太郎の父を救い出し、龍賀の陰謀と戦う」かのどちらを選ぶかで迷っていたのだろうと思います。鬼太郎の母への仕打ちを聞いたとき、乙米に対して「お前らは人間じゃない」と訴えており、あの時点で龍賀家の悪事を暴き、すべてを終わらせることも覚悟していたのでしょう。ただ、一方で自身の力の限界や命の恐怖も感じており「逃げる」という選択肢も残していた、という状況ではないでしょうか。日記を破り捨てたのは、少なくとも会社に「M」の情報を持ち帰って出世する選択肢は捨てた、という意味だと思います。戦うのなら、自分が覚えている以上日記自体は不要ですし、逃げるにしてももう再び龍賀一族と関わるつもりはなかったのでしょう。
沙代が「妖怪に取り憑かれていた」表現の真意とは
覚悟を決めた水木の前に沙代が現れ、自分を連れて東京に逃げるよう願い出ます。一度は逃げる方向に心が傾き、村の出口まで沙代とともに足を運びますが、トンネルの直前で心変わりして引き返すことになります。
一方の鬼太郎の父は地下室に運び込まれ、幽霊族の血を輸血され生きたまま死人と化した人間たちを目にします。幽霊族の血を人間に直接輸血すると死人になってしまうものの、その死人の血液を採血してそれを元に手を加えれば「M」を作り出せる、という仕組みでした。
すんでのところで、水木と沙代が地下室に侵入し乙米、幻治ら裏鬼道と退治。一触即発の状況となりますが、話の流れで連続殺人事件の犯人が沙代であったことが判明します。水木は沙代が「妖怪に取り憑かれている」と表現。絶望した沙代は狂骨を操り、乙米、鬼道衆らを皆殺しにし、水木にも手をかけようとしますが、幻治と相打ちとなって命を落としました。
そもそも、沙代はなぜ村を出ようとしているのになんの妨害も受けていないのか、という点が気になります。沙代はしきりに「自分を東京に連れて行って」とは言うものの、少なくとも村の中での行動はかなり自由がきいており、孝三との面会や時麿の日記の持ち出し、その裏での庚子の殺害などほとんど妨害を受けた形跡がありません。
幻治が裏鬼道を統率しており、村人たちも龍賀一族に協力している、という状態にあって、ここまで行動に自由が効くのは奇妙です。もちろん、幻治ら裏鬼道の主力は鬼太郎の父を捉えるために人数をかけており、それ以外の部分が手薄になっているであろう、という点を考慮してもです。
私の考えは「裏鬼道・村人たちの一部に沙代の協力者がいた」というものです。それも1名ではなく、複数人が存在していたものと思います。そうでなければ、時麿や庚子の殺害後、返り血を浴びたであろう服の後始末など、沙代一人では到底無理だろうと考えられるからです。
「狂骨を使った超常的な殺人なのだから、そういった点は考慮する必要がない」と考えることも可能ですが、私は「超常現象を省いた解釈」で考えてみたいと思いました。村人や裏鬼道に協力者がいたと考えると、殺人後の後始末や村内での行動の自由など、色々なことの説明ができます。特に一人ではほぼ実行不可能であろう丙江の殺害(木の上への死体遺棄)などは、複数人であれば「縄などを利用して木の上に釣り上げる」などの機械的な方法でも実行可能になるでしょう。
地下室での、狂骨を使った沙代の暴走も妖怪の超常的な力でやったのではなく、複数の協力者が沙代に加担し乙米・幻治らと戦ったと考えてはどうでしょうか。特に幻治は、戦いの中で狂骨をコントロールする髑髏を失い、そのために沙代の狂骨に対抗できずに敗れることになりました。狂骨を「裏鬼道衆の指揮権」と解釈するのなら、裏鬼道の中の一部が沙代に加担、乙米に加担するグループと戦い共倒れになった、と解釈することもできます。(それが「妖怪を信じる」水木の解釈によって、劇中のように妖怪の仕業に置き換えられたということです)
「可憐な少女である沙代にそんなことはできないのでは?」と考える人もいるでしょう。しかし、私はこれまでの記事の中で書いてきたように、沙代にそこしれない恐ろしさを感じていました。到底「東京に憧れる無垢な箱入り娘」などではなく「劣悪な家庭環境の中で心が壊れてしまった残虐な殺人者」というふうに私の目には見えていました。
なのでこの解釈に行き着いたときもすんなり納得できたことを覚えています。
沙代=悪女説と視聴者向けの幻想フィルター
最初の時麿殺しの際は、目に錫杖が刺さって死ぬという「いかにも沙代自身の力でもできそうな殺し方」であったにもかかわらず、劇中の描写では時麿に襲われ危機を感じた沙代の意志で錫杖が勝手に動き、時麿を殺害したように描写されています。考えてみればこれも不自然で、沙代が直接錫杖を持って殺したように描くほうが自然です。(そうでなければ、沙代はあの時点で「錫杖を遠隔操作する程度の霊力は得ていた」ことになるからです)
「そのときは自分の力でたまたま殺してしまったが、それを気に霊力が高まって狂骨をコントロールする力を得て超常的な殺し方ができるようになった」というふうに描いてもなにも問題はないはずだからです。
そうしなかった理由は「最初の時麿殺しの時点から、殺人は沙代自身の意志によるものではなく妖怪の仕業である=沙代自身は純真無垢な少女だが、妖怪に取り憑かれているために残酷な行為に及んだ」と描くためでしょう。「妖怪」とは単に「見えないものの働きを表す視覚的な表現」を意味するとは限りません。「キャラクターの考えや行動」についても、目に見えない妖怪が影響を及ぼしている、と解釈することもできます。
私は劇中の沙代の沙代のキャラクター描写には、かなりの「幻想フィルター」がかかっていると考えています。実際の沙代は打算的かつ狡猾であり、目的のために水木を利用しながらも逆に彼に負い目を抱かせるように振る舞う「悪女」であると思います。ただ「鬼太郎映画」であることもあって、メインヒロインのそういった人格面の闇はあまり目立たないように演出されているのでしょう。沙代が行った全ての悪い面を「妖怪の仕業」にすることによって。
ラスボス・龍賀時貞とは何者か?
水木は鬼太郎の父を救出し、二人は地下室のさらなる奥に進みます。そこには幽霊族の血を吸い上げる「血桜」が咲いており、ミイラ化した龍賀時貞と時弥が待ち構えていました。時貞は時弥の体を外法により乗っ取り、現代に復活。狂骨を操って鬼太郎の父と激しいバトルを繰り広げます。
私は直前の乙米・幻治・沙代のシーンを含めて、地下室に入って以降のシーンには、ここまでのシーンと比較して多分に「幻想フィルター」が働いていると考えています。水木が地下室に入ってからのシーンでは基本的にその場にいる人物は皆「妖怪の存在を信じる」側の者たちであり、「妖怪の存在を信じないもの=たとえば克典など」は、同じ場所にいません。そういう状況では「前後の辻褄さえあっていれば、超常現象を描いて問題ない」というルールが本作には存在すると考えているからです。
超常現象を省いた解釈では「時貞が時弥の体を乗っ取る」という状況はありえません。したがってこのシーンは何らかの暗喩である、と解釈できます。それがなんの暗喩であったのかを示すためには、まず龍賀時貞という人物について考える必要があります。
龍賀時貞はこの物語の発端でもあり、黒幕でもあります。劇中で描かれた彼の所業としては、
- 龍賀製薬を発展させた実力者であり、その背景には「M」の力があった
- 「M」を生み出すために幽霊族を捕らえ、血桜に血を吸わせていた
- 裏鬼道を操り、また哭倉村の村民を使役して幽霊族の血を輸血するための死人候補を拉致していた
- 家父長制の中で自身の子、孫を強権的に支配していた
といったものが挙げられます。
私はこれらの要素には、劇中ではあえて詳しく触れられず伏せられている要素があると考えています。まずはその点を順番に説明していきましょう。
時貞は裏鬼道の一員であった
時貞は自身のことを「薬学の権威」と自称していました。日清・日露戦争から太平洋戦争を経て「M」の販売を拡大し、それによって権力を握ったことを考えると、元々龍賀家は製薬業を営む一族だったのでしょう。
問題は「裏鬼道との接点」です。私は時貞が狂骨を操っていた描写から「時貞も裏鬼道の一員であった」と推測しています。もしかしたら、幻治は時貞の弟子にあたり、元々裏鬼道の頭目であった彼の跡を引き継いだのかもしれません。そう考えれば、なぜ単なる製薬を営む一族が裏鬼道を取り込み、かつ支配下においているのかについても説明がつきます。劇中では裏鬼道は「龍賀に拾われた」とありますが、どこから接点を持つことになったのかが不明でした。時貞が元々裏鬼道の一員であった(もしくは、そもそも元の鬼道衆から分派する際にも主導的な役割を果たした)と考えれば、シンプルに収まります。
時貞はまた、哭倉村に元々住んでいたのかどうかは不明ですが、そこで地下に住んでいた幽霊族と出会ったのは間違いありません。私は「時貞は元々哭倉村の出身である」「時貞もまた幽霊族の一員である」と考えています。
乙米は劇中で「保ってあと3日」や「早く時弥を連れてくるように」と、地下室のなにかを気にしている様子が描かれています。これは「血桜が栄養源にしている幽霊族の命が尽きかけており、そのために血桜が枯れかけている」という描写だと思います。時貞、及び彼から明示された時麿は、血桜の世話をする役割が与えられていたのでしょう。
血桜の周りには特有の瘴気のようなものが漂っており、普通の人間は長くとどまれないという描写があります。乙米や水木は体調を崩したり、鼻血を出す様子が見られていましたので、時貞や時麿など、一部の人間にしか耐えられないものだったのでしょう。
時貞が近親交配を繰り返してまで保とうとした「龍賀の霊力」とは、この「血桜の瘴気に耐えられる体質」であったと考えられます。時貞、時麿はこの体質を有しており、乙米などには備わっていなかった、ということでしょう。時貞に乗っ取られた時弥も平気である様子から、時弥も血桜の影響を受けない体質であった、と考えられます。
では、そもそもこの「血桜」とは何なのか。「妖怪」を信じない解釈を取る私は、血桜という特殊な植物が実在するのではなく、それは暗喩であり、実際には「捕らえられた幽霊族を活かし、同時に採血する装置」が存在したのだと考えています。ちょうど、ひとつ手前の階層で「幽霊族の血を輸血し、死人から採血する部屋」が存在していましたが、それと同じようなものが存在したのだと思います。物語上の演出では「幻想フィルター」によって、幽霊族の血を吸って不気味に花を咲かせる「血桜」が描かれていた、という解釈です。
たとえば、次のような装置があったという仮説はどうでしょうか。
比較的元気な幽霊族1人と、「死人」と同じように植物状態になった幽霊族5人がつながれた「採血設備」がある。
元気のある幽霊族1人と、「死人」状態の幽霊族5人は1セットになっており、同時に設備に繋がっている間は生き続けられるが、元気のある幽霊族が死亡してしまうと残り5人だけでは設備を支えられなくなり、全員が死んでしまう。
元気な幽霊族1人×「死人」状態の幽霊族5人というのは、適当な数字ですので「10人×50人」のように、もっと規模が大きいものを想像しても構いません。ポイントは「採血設備全体として、維持に最低限必要な『元気な幽霊族』の人数が決まっており、それを下回ると設備を維持できなくなる」というものを想像してほしいのです。
このように考えると乙米の「保ってあと3日」といった台詞の意味も理解できます。「元気な幽霊族」を装置に追加しないと、現在の幽霊族たちがすべて死んでしまい、装置全体が機能不全になってしまう、という意味でしょう。
時貞も幽霊族である
私は「時貞は幽霊族の血を引いている(または、自身も幽霊族の一人である)」と考えています。いわば彼は「幽霊族内の裏切り者」であって「自分の繁栄のために一族を裏切り、他の幽霊族を捕らえて採血設備につなぎ、その血を売って利益を得ていた」のだと考えます。
最初は幽霊族の母数が一定以上いたため、装置を維持することができていたのでしょう。しかし、次第に数が足りなくなり、最終的には装置を維持できる限界の数に来てしまったのだと思います。
時貞らが「幽霊族の血を引いている」と考える理由は、彼らが足繁く地下室に通う必要があった点に理由があります。もちろん「血桜が抽出する幽霊族の血を定期的に回収する必要があったから」というのは間違いないのですが「血桜が発する瘴気のために龍賀一族の中でも適性がある一部の人しか近づけなかった」という点の「幻想フィルター」を外して考えると「時貞ら自身も、装置の維持のために自身の血液を提供していた」という仮説が立てられます。そしてそれができるということは、彼らもまた幽霊族の血を引いている、と言えるのではないかと考えたわけです。
そもそも「装置の維持が限界に来ている」のであれば、一時的に採血をやめる=「M」の製造を中断するという方法も取れたはずです。根本的な解決にはならないでしょうが、鬼太郎の母など装置を支える「元気な幽霊族」の衰弱を抑えることはできたはずです。にもかかわらず乙米が「保ってあと3日、時弥を連れてこい」などと言っていたのは「時弥が何らかの役割を果たせば装置を維持できる(逆に、他の方法がない)」という理解があったからでしょう。そうでなければ、元々体が強くない時弥を無理に急いで血桜の元へ連れて行く理由がありません。
元々は時麿がかかりきりで装置の維持を担当する役割を果たしていたのでしょう(時貞には龍賀製薬会長としての役割があるため)。本来、跡取りの最有力候補であった時麿が「とと様の命で嫁取りも許されず修行に励んできた」のは、健康面の問題もあったでしょうが、それだけ重要な役割=採血装置の維持管理に専念していたためだと考えれば納得がいきます。
さらに時貞は自身が死亡したときに備えて採血装置を維持できる体制を考案したのだと思われます。
時貞生前の体制を確認してみましょう。
■旧体制
①龍賀家当主:時貞
②龍賀製薬会長:時貞
③採血装置の維持管理:時麿
④龍賀製薬社長:克典
このうち、①②③は龍賀家出身のものでなければなりません。③についてはさらに適正の有無が問われます。④については一族の者以外でも経営手腕があれば問題ありません。時貞の死を受けて、この体制は次のように変化することになりました。
■新体制(時貞死後)
①龍賀家当主:時麿
②龍賀製薬会長:乙米
③採血装置の維持管理:時麿(将来時弥へ移乗予定)
④龍賀製薬社長:克典
しかし、この体制は時麿が死亡したことで即時に崩壊します。
■新体制(時麿死後)
①龍賀家当主:時弥(予定)
②龍賀製薬会長:乙米
③採血装置の維持管理:時弥(予定)
④龍賀製薬社長:克典
乙米にしてみれば、鬼太郎の父を捕らえることは非常に大きな意味を持つことがわかります。幼少の時弥一人では不安であった採血装置の維持も、幽霊族の数が増えれば負担は軽くなるはずですし、時弥の重要性が下がれば庚子との主導権争いも相対的に優位に立てるはずだからです。
時貞は幽霊族の血によって延命処置を受けていた
また、死亡したと言われていた龍賀時貞が、この地下室に干からびた状態でいたことの理由も説明が付きます。時貞は死期が迫ってきたときから地下室へ運ばれ、採血装置につながれていたのではないでしょうか。もちろん、時貞から血を抜くためではなく、死にかけている時貞に幽霊族の血を輸血し延命を図るためです。普通の人間であれば、延命できたとしても「死人」=植物状態になってしまうため、この説を取る場合は必然的に、先に述べた私の説の通り「時貞は幽霊族の血を引いている」という解釈につながります。
私の考えは以下のとおりです。
- 時貞は幽霊族の血を引いており、幽霊族の血に耐性があった
- そのため死期が迫った時貞を血桜=採血装置につなぎ、幽霊族の血を輸血することで延命を図った
- そのうちに時貞が衰弱し、装置を外すのが困難になった
- 採血装置もまた、時貞が死亡すると維持できなくなる
時弥を地下室へ連れてくる必要があったのは、死にゆく時貞に代わって装置に血液を供給し、維持するためでしょう。老いた時貞は装置に「生かされている」立場ですが、時弥はまだ若く装置を「活かす」側に回れるはずです。乙米には「時弥は装置に常時つながずとも、一日のうち何時間かを装置につないでいれば、日常生活は送れる」という見込みがあったのではないでしょうか(おそらくは生前の時麿もそうしていたと思われます)。もちろん、時弥の健康面からリスクはありましたが、鬼太郎の父を捕らえられたことでそのリスクはさらに軽減されました。
「時弥が外法によって時貞に体を乗っ取られた」という演出は「幻想フィルター」を外してみると「時弥が採血装置につながれ、龍賀の闇の部分を担う一員になった」というシーンを象徴的に描いたものではないか、と思います。
実際の映画では妻を助けようとする鬼太郎の父が、時貞が操る狂骨と戦い、それを覚悟を決めた水木が助ける、という形でストーリーが進行していきます。この場面も「超常現象を省いた解釈」で客観的にはどのようなシーンであったのか推測することが可能です。
私の考えでは、
- 時弥と鬼太郎の父は採血装置につながれてしまった
- ここで2人を見捨てれば龍賀一族はほぼ全滅しているため「M」の秘密を握れる
- 水木は2人を見捨てて己の栄達を目指すか、2人を助けるかで葛藤を起こす
こうした「水木の心の中の戦い」を「妖怪との戦い」という形で視覚的に描いたのが最後のバトルシーンではないでしょうか。
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