前回記事 【1話 その7】アニメ感想「けものフレンズの謎」:サーバルの「聖母の微笑み」に隠された意味とは?
【Bパート 水辺でのカバとの遭遇】
このシーンは非常に重要なシーンです。なぜならかばんちゃん、サーバル以外のフレンズが初めて会話に加わるシーンだからです。以前の記事の中で、「さばんなちほーにはフレンズがたくさんいる」にも関わらず、「なぜカバが登場するまでほかのフレンズとの会話が描かれなかったのか?」という点について少し触れました。さきにシマウマやトムソンガゼルが登場していながら、会話もなく通り過ぎていった理由は、ここまでのシーンを見る限りまだ謎のままです。
参考:【1話 その4】アニメ感想「けものフレンズの謎」:サーバルのセリフに対する2つの疑問
カバの登場により、その謎を解くヒントが得られることになります。
【Bパート カバとサーバル・かばんちゃんの会話】
カバ:今日はセルリアンが多いからみんなあんまり出歩かないんですわ。ゲートにも、ちょっと大きいのがいるそうよ。気をつけるんですのよ。
サーバル:じゃあ、私がやっつけちゃうよ!
カバ:サーバルがですの!?心配ですわ!
まず、サーバルがかばんちゃんをゲートまで送っていることをカバに説明するところから会話が始まります。話を聞いたカバは、以下の3つの理由から2人を心配します。
- その日、サンドスターの影響でセルリアンが多く発生していること
- サーバルの戦闘能力に不安があること
- ゲート付近に巨大なセルリアンがいるらしいと聞いていること
この中で、特に重要なのは2点目の「サーバルの戦闘能力に不安がある」という部分です。ここまでのサーバルのキャラクター像は、かばんちゃんとの対比で描かれてきました。ジャンプ力や木登りに優れるサーバルに対して、それらが苦手なかばんちゃん、という描き方です。視聴者の多くは主人公であるかばんちゃんに感情移入して見ているはずなので、ここまでのシーンを見ているだけだとサーバルに対して「頼りになる」という印象を持っていることでしょう。
初めて「サーバルへの第三者の評価」が描かれた
ところが、カバはそんなサーバルの戦闘能力に疑問を呈します。実は、この伏線となる言動は以前にもありました。Aパートのセルリアン撃退後、己の無力さを嘆くかばんちゃんを元気づけるシーンです。サーバルは「私もよく『ドジー!』とか『ゼンゼンヨワイー!』とか言われるもん」と語り、かばんちゃんを慰めています。
しかし、視聴者(かばんちゃん)の視点からすると、この時点ではまだサーバルのこのセリフが本当かどうか、確かめるすべはありませんでした。想像力をたくましくすれば、単にかばんちゃんを元気づけようとして謙遜してそう言っているだけ、という可能性もあるからです。
例:新入社員に仕事を教えてくれる頼れる先輩
たとえば、「新入社員が新しい職場に配属された」というような場面を想像してみてください。右も左も分からない自分に、入社2年めくらいの先輩がいろいろと世話を焼いてくれて、仕事のやり方を教えてくれたとしたら「なんて頼りになる先輩なんだろう」と思うはずです。
ところが、しばらく仕事をしていて、その先輩がほかの社員や上司から「ドジだなぁ」とか「全然使えないなぁ」と言われているのを見たとしましょう。そうなると、自分自身のその先輩に対する見方も少し変わってくるはずです。自分にとって「頼れる先輩」であることは変わらないにしても「職場の他の人からは、あまり頼りにされてない人なんだな」という印象は頭の中にインプットされるはずです。
サーバルとかばんちゃんのここまでの描き方も、先ほどの「新入社員と先輩の例」と似ています。かばんちゃんの目から見たサーバルは、「頼れる先輩」であり、周囲から「ドジー」「ゼンゼンヨワイー」などと言われている、ということは大した問題ではありませんでした。ところが、カバとの出会いによりサーバルに対する「周囲からの評価」をかばんちゃんが知ることになり、かばんちゃんの中のサーバルの人物像が多面的なものに変化していきます。
ここまで「第三者となるキャラクター」を登場させなかった意味
このように、かばんちゃんのサーバルに対する見方が変化するきっかけとなったのは、「カバという第三者の登場」がきっかけでした。では、もしもっと早く第三者となるキャラクターが登場したとしたら、どうなっていたでしょうか?
たとえば、シマウマやトムソンガゼルが登場したとき、遠目に眺めるのではなく近寄って会話していたとしたらどうでしょう?2人はサーバルとは知り合いです。当然、会話の内容はカバと話したのと同じような内容になっていたことでしょう。ただしそうなると、かばんちゃん自身はともかくとして、視聴者の頭に「サーバルの能力に対する疑問」が浮かんでしまうことになります。
その後に展開する崖を降りるシーンや、川を渡るシーン、セルリアンと遭遇するシーンは、かばんちゃんとサーバルを対比しそれぞれのキャラクター像を深掘りする大切な場面です。これらのシーンで「サーバルの能力に対する第三者の評価」がすでに加えられていると、それぞれのシーンの意味合いが薄まってしまいます。
「余計な情報」がないことで、多くの人が感動できるシーンが生まれる
サーバルは崖や川を難なく移動し、セルリアンも簡単に撃退します。それを見てかばんちゃんは自信を喪失し、「フレンズによって得意なことが違うから気にすることはない」とサーバルから慰められることになります。ですが、もしこれらのシーンに先立って「第三者の評価」を視聴者が知ってしまっていると、「フレンズによって得意なことが違う」という事実を、サーバルに説明される前に視聴者が感づいてしまうことになってしまうからです。
- 周囲から「ドジー」と言われるサーバルでさえ、崖を平気で降りている。きっとサーバルは崖を降りるのが得意なんだろう
- 周囲から「ゼンゼンヨワイー」と言われるサーバルでさえ撃退できるんだから、あれはたいして強くないセルリアンなんだろう。あるいは、セルリアン自体それほどの脅威ではないかもしれない
といった推測が可能になってしまうのです。こういう、余計な解釈ができる余地が加わってしまうと、セルリアン撃退後、落ち込むかばんちゃんをサーバルが勇気づけるあのシーンの感動が薄れてしまいます。あのシーンが感動的なのは、サーバルとかばんちゃんという2人のキャラクターの対比という、単純な構図で描いているからです。構図が単純であればあるほど、多くの人々にとって理解しやすくなるので、多くの人に共感・感動を生むことができます。
視聴者に過剰な情報を与えないことが感動を生む
たとえば、「離れ離れになっていた母親が、子どもと再開して抱き合う」というシーンを想像してみてください。そのシーンがどんなものであれ、多くの人に感動を与えるシチュエーションであることは容易に想像できます。ではもし、そこで「その母親は仕事を優先して育児に熱心でない面があった」とか、「子どもにも親を無視する自分勝手な面があった」といった、余計な情報が加えられていたとしたらどうでしょうか?おそらく、感動できるという人の割合は減ってしまうはずです。
もちろん逆に、細かい情報を描写することによってシーンの感動が増す、という場合もあります。ただ、少なくともけものフレンズの第1話において、サーバルとかばんちゃんの掛け合いを感動的に見せる上ためには「カバの登場まで、ほかの人物との会話は必要なかった」ということになります。これが私が考える「シマウマ・トムソンガゼルとの会話シーンが描かれなかった演出上の理由」です。