ゴジラ -1.0考察:戦後日本のユア・ストーリー

山崎貴監督の映画作品「ゴジラ -1.0(マイナスワン)は、ゴジラ映画に確かな足跡を残しました。

肯定的な評価としては

「人間ドラマと怪獣をひとつのストーリーとして統一感を持たせて描ききった」

というふうに表現できると思います。一方で、

「ストーリーがベタで、登場人物の演技もクサすぎる。脚本もずさんで見るべき点は映像だけ」

といった否定的な評価をする人もいます。

今回は、山崎監督がゴジラ -1.0で一体何を描きたかったのか、山崎監督の作家性を下敷きとして考察してみました。

前記事より「山崎貴の作家性」

本記事に先立つ前記事において、私は山崎貴監督の作家性について、次のように整理しました。

ここまで過去のインタビューからピックアップして山崎貴監督の作家性について考えた来たわけですが、一旦要点をまとめてみます。

  • まず作品の舞台設定から考える。過去の作品などと被らず、自然に「映画」になるような舞台を選ぶ。
  • 映画は基本的にエンタメ(=誰が見ても解釈が異ならないもの・良し悪しが明確に決まっているもの)として作る
  • ただし文芸作品的要素(=人によって解釈が異なるもの・良し悪しを割り切れないもの)も入れておく
  • 文芸作品的要素は人=登場人物と作中に登場するモノを通じて表現する
  • 文芸作品的要素はあえて強調せず気づく人だけ気づいてくれれば良い形にしておく
  • ストーリーの中核は「作中の舞台設定で、個人がどんな体験をしたか」を描く

こんなところでしょうか。さらに副次的な要素として今回の作品が「ゴジラ」であるという点も踏まえると次の点が挙げられます。

  • ゴジラに対しては特別な想いがあった
  • シン・ゴジラと被らないように作った
  • ゴジラ=祟り神であり、ゴジラ映画は「神事」であると解釈
  • 戦争というテーマについては子どもの頃から関心が強い(紫電改のタカ、はだしのゲンなど)
  • 親世代から戦争体験を聞いて育った
  • ほかにも戦前・戦中をテーマにした作品を多数撮っており、その過程で当時の調査や関係者への取材も十分に行っている
https://contentsmdcr.com/?p=14054

本記事を読む前に、未読の方はこちらの記事を先に読んでおくことをおすすめします。

それでは、これらの要素を踏まえて「ゴジラ -1.0」をどのように解釈できるか、考えていきたいと思います。

「ユア・ストーリー」を作家性から解釈する

ゴジラ -1.0について考える前に、比較対象として「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」を山崎監督の作家性に基づいて解釈すると、どのように言えるか考えてみましょう。

(ドラゴンクエスト ユア・ストーリーについても前記事にて簡単に触れていますのでご覧ください)

そもそも、山崎監督は「ドラゴンクエストの映画化」には否定的でした。

https://mantan-web.jp/article/20190801dog00m200054000c.html

しかし、本作に対する批判の原因にもなっているラストシーン(ドラクエの世界をそのまま描いたのではなく「VRゲームでドラクエの世界を擬似体験している人」を主人公に描いたこと)を思いついたことから映画化を引き受けた、と語っています。

先に述べた「山崎貴の作家性」をベースに考えると次のように表現できます。

・まず作品の舞台設定から考える。過去の作品などと被らず、自然に「映画」になるような舞台を選ぶ。
→「ドラゴンクエスト」そのもののストーリーは映画では描くのに無理がある、しかし「ドラクエを昔プレイした人たちが当時体験したこと」なら、映画で描けるのでは?と考えた。

これだけなら、ほとんどの人は同意してくれる解釈だと思います。

後に「ゴジラ」につながる「文芸作品性」の伝え方

次に問題になるのが「エンタメ性」と「文芸作品性」の両立です。

  • 映画は基本的にエンタメ(=誰が見ても解釈が異ならないもの・良し悪しが明確に決まっているもの)として作る
  • ただし文芸作品的要素(=人によって解釈が異なるもの・良し悪しを割り切れないもの)も入れておく

エンタメ性については元々のテーマである「ドラクエをプレイした人に、当時の気持ちをリフレインさせる」という点でクリアできますが、考察を始めた段階では「文芸作品性については正直本作ではうまく表現できていないのではないか」と感じました。

一般的な評価では、山崎監督はユア・ストーリーに対して「ゲームは作り物の世界かもしれないが、体験した本人にとって(得られた感動や経験は)現実と変わらない」といった要素を当て込んだ、と言われています。そしてそれは「ゲーマーにとっては手垢がつくほど触れられてきたテーマ」であったために、結果として批判の声が多く集まる結果になったものと思います。

ただ、私はこの「作り物の体験も(体験した本人にとっては)現実と変わらない」「エンタメ性と文芸作品性の両立がうまくできなかった」という部分は、山崎監督のその後の作品づくりに影響を及ぼしたのではないか、と考えています。

作家性で考察する「ゴジラ -1.0」

前置きが長くなりましたが、ここからいよいよ「ゴジラ -1.0」を山崎監督の作家性に基づいて考察してみることにしましょう。先程と同様、舞台設定の部分からスタートしていきます。

・まず作品の舞台設定から考える。過去の作品などと被らず、自然に「映画」になるような舞台を選ぶ。
→舞台は戦後、初代「ゴジラ」よりも昔の1947年、敗戦ですべてを失った日本にゴジラが登場。

これは本人もインタビューで語っていることなので、おおよそ間違いはないと思います。

次に「エンタメ性」と「文芸作品性」の両立について考えます。

  • 映画は基本的にエンタメ(=誰が見ても解釈が異ならないもの・良し悪しが明確に決まっているもの)として作る
  • ただし文芸作品的要素(=人によって解釈が異なるもの・良し悪しを割り切れないもの)も入れておく
    →「戦争のトラウマ」の象徴としてのゴジラに主人公敷島+日本の民間人たちが立ち向かい、見事トラウマを克服=ゴジラを倒す、というエンタメ的ストーリー。文芸作品的要素は登場人物、作中に登場するモノ(兵器など)に入れ込む。

本作においてゴジラが「日本人のトラウマの象徴」として描かれているという解釈は、SNSなどでも複数の人が語っていました。付け加えると、次のような解釈も可能だと思います。

・トラウマは目を背ければ背けるほど大きくなる=劇中でもゴジラが大きくなる

文芸作品的な要素(人・モノ)については、後でもう少し詳細に触れたいと思います。

「ゴジラ -1.0」はエンタメ性100%の作品なのか?

私がそもそもこの考察を始めた理由は「ゴジラ -1.0は完全にエンタメに振り切った作品であり、山崎貴は職人として作っているのであって、その作家性はまったく作品に反映されていない」という解釈を耳にしたからです。

当時はまだ、十分に自分の考えを整理できていませんでしたが、私の説は「山崎監督の作家性は十分に反映されている」というものです。その決定的な証左だと私が考えているのが、ラストシーンで主人公敷島と奇跡の再開を果たすヒロイン典子の首筋に浮かび上がった「黒いアザ」に対する解釈です。

一般的には「あれはゴジラ細胞であり、典子は無傷で助かったのではなくゴジラ細胞の何らかの作用によって生き残った(復活した)ものであって、ハッピーエンドではない不穏な含みを持たせている」との解釈が主流かと思います。

私もストーリー上の解釈としては「続編に対して含みをもたせる演出である」と解釈しており、もし本作に続編が出るのなら、そこで何らかの使われ方をするのだろう、と思います。

「黒いアザ」の文芸作品的解釈

ただし「作品世界=エンタメ的ストーリーの中での解釈」を離れて「山崎監督が何らかの文芸作品性を表現するための小道具として用意したものではないか」と解釈すると、まったく違った見方ができます。

ここで再び、山崎監督の作家性を構成する要素を取り出してみましょう。

  • 文芸作品的要素は人=登場人物と作中に登場するモノを通じて表現する
  • 文芸作品的要素はあえて強調せず気づく人だけ気づいてくれれば良い形にしておく

私は典子の黒いアザも、この「文芸作品的要素が込められたもの」だと解釈しています。もしこれがゴジラ細胞だとするなら、先程のゴジラ=トラウマの象徴という解釈と合わせると次のように読み解けます。

  • 主人公敷島と海神作戦に参加した民間人たちは、それぞれ戦争のトラウマを抱えていたが、トラウマの象徴たるゴジラを倒すことで、それを乗り越えた。
  • しかし、トラウマは完全になくなったわけではなく典子の首筋と海中に沈んでいったゴジラの肉体に残っている、黒いアザは典子の首筋で蠢き、ゴジラの肉体に残された心臓はそれに対応して鼓動する

これだけなら、特に特別な要素を必要とせずとも、作中の要素だけで十分に読み解けます。しかし、私は自分でこの解釈にたどり着いたときに「なぜ払拭されたはずのトラウマが、まだ残っているのか?」という点に疑問を感じました。その疑問点を解消するために、山崎監督のインタビューなどの資料を読み解き、作家性を分析することで次のような答えに行き着くことになりました。

理想化されたありえない日本の戦後

私はまず次のような仮説を立てました。

  • 劇中の日本人たちのトラウマはゴジラを倒したことで完全に払拭されている
  • にも関わらず黒いアザ、ゴジラの心臓の鼓動という形でトラウマが描写されている
  • これは「映画の視聴者である我々『現実の日本人』のトラウマを表しているのではないか?

山崎監督が劇中で表現したかったと私が考えている主張を、少し意地悪に表現してみると次のようになります。

  • 敷島たち「劇中の戦後の日本人」は見事戦争のトラウマを乗り越え、ゴジラを倒しました
  • 主人公は特攻で死ぬこともなく、敵から逃げることもなかった
  • 死んだと思われていた想い人も無事で、完全なハッピーエンドです
  • 「現実の日本」の戦後の歴史も、こうだったら良かったですね!(という痛烈な皮肉)

日本は戦後、アメリカを始めとする連合国の占領下にあり、その後朝鮮戦争による特需で高度経済成長を成し遂げます。敵であったアメリカと安保条約を結び、人によっては「属国」とも表現されるような関係を続け、現在に至っています。

戦後の日本が歩んできた歴史に対する評価は様々だと思いますが、劇中で海神作戦に参加した日本人たちのように「戦争のトラウマ」を払拭する機会を得られなかったことは確かだと思います。

敷島は運良く生き残りましたが、実際には特攻隊で多くの若者が命を落としています。大戸島で呉爾羅の犠牲になった軍人たちのように、太平洋や大陸で命を落とした人々もたくさんいました。劇中では敷島たちが彼らの無念を代わりに晴らす格好になっていましたが、現実の日本の歴史ではそのような機会は得られていません。

典子のように、戦後の困窮した時代で生活に困った女性も大勢いたことでしょう。劇中で典子は「パンパンにでもなれというのか」と言っていましたが、敷島と暮らすことになったため、そうはならずにすんでいます。しかし、実際にはそうした道を選ばなければならなかった女性もたくさんいたでしょう。

典子が助けた女の子「明子」は、親切な隣人澄子によって貴重だった米を与えられ、命をつなぎます。しかし、これも運がいい話で「火垂るの墓」で描かれるように、命を落とした子どもも多かったことと思います。

「敗戦時の軍人たちの血色が良い」「服がキレイすぎる」といった点を挙げるまでもなく、ゴジラ -1.0の劇中で描かれた戦後日本の姿は「都合が良すぎる・美しすぎる日本」です。誰一人として「悪いだけの人」や「わかりやすい悪役」は登場せず、皆そのときどきの状況で迷いや不安こそあるものの「前向きに生きている、いい人たち」ばかりです。リアリティを追求した戦後の日本ではなく「本当はこうであったらよかったのに」と言えるほどまでに「過剰に理想化された戦後の日本」が描かれていると思います。

山崎貴は「映像的なリアリティ」を追求していない

山崎監督が率いるVFXプロダクション「白組」は、国内外で評価が高く、今回作成したVFX映像も非常に見応えがあるものばかりでした。そのクオリティはハリウッドにも引けを取らないと言われています。

しかし、それだけ「本物に見えるほどリアルな映像」を作れる集団であるのに、私はそれを率いる山崎監督が「自分たちが作っている映像のリアリティをまったく信じていない」ように感じられて、ずっと違和感を持っていました。

ですが逆に「そもそもリアリティの追求が至上命題ではない」「どこまでもリアルに見えるその映像が『作り物』に過ぎないことを誰よりもよく理解している」という前提で作品づくりに打ち込んでいるのだと解釈すると、色々なことの辻褄が合うことに気が付きました。

「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」に話を戻すと、あれは「ドラクエの世界をリアルに再現したVRの世界」という位置づけです。これは(多くのファンが望んでいたように)「ドラクエの世界観をそのままVFXで再現する」ということを最初から諦めている作り方です。

ここからは私の想像になりますが、山崎監督は、

誰よりもリアルなVFXを作り出せるクリエイターを率いていながら、自分たちが作り出すものは「写実的・リアルなもの」ではなく、抽象的・象徴的表現も含んだ創作物である

と捉えているのではないでしょうか。

たとえるなら「一見して写真にしか見えないほど写実的な絵を描く才能がありながら、写実的な再現ではなく常に『対象物を見て、何を感じたか』をキャンバスに写し取ろうとしている絵描き」のようなものです。

ただし、この「絵描き」は本人は「何を感じたか」を表現しようとしているのに、作り出すものが圧倒的に写実的であるがために「リアリティを追求してそうなったのだろう」という解釈で作品を見られてしまいがちである、という点に注意が必要となります。

このように解釈すると「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」がなぜあのような展開になったのか、理解できます。

実際のドラゴンクエストVはスーパーファミコンソフト、キャラクターはドット絵でセリフは吹き出し、マップの移動や敵との戦闘は専用のウィンドウが開くなどして表現されます。本来はこれこそが「リアルなドラクエの世界」であり、仮にそれをリアリティをもって表現したいならドット絵や吹き出しでの会話を再現しようとするほうが正解に近いことになります。

しかし、山崎監督はそうはしませんでした。当時最新のVFX技術を使って2D・3Dの表現を組合せた新しい映像表現で「ドラクエ」の世界を描きました。しかしこれはすでに述べたように「リアルなドラクエの世界」ではありません。おそらくこのようなイメージが浮かび上がった時点で、この「作られたドラクエ世界」をどのような舞台設定にするのが面白いか、を山崎監督は考えたはずです。その答えとしての「ドラクエ世界を再現したVRゲーム」だったのでしょう。それであればキャラクターがドット絵で描かれていなくても整合性はつきます。

そして、山崎監督が本当に描きたかったのは「ドラクエを再現したVRゲームを体験したとき『個人は何を感じるか』」だったということもわかります。「ユア・ストーリー」のラストは、ゲームの世界を破壊しようとするハッカーと主人公が戦い、プログラムウイルスを倒して世界を救うという流れです。その後、エンディングを迎えればゲームの体験が終わってしまう、ということを承知の上で、エンディングの場所に向かう、という流れで物語は締めくくられます。主人公の最後のセリフは「僕は勇者だったんだ」というものです。

これも「実際のドラゴンクエストV」のストーリーでは「主人公は勇者ではなく、その子どもが勇者」であったり、「最後の敵(映画ではプログラムウイルスに乗っ取られている)を倒すのに、作品とは関係のない別の勇者の武器=ロトの剣を使う」といった改変がなされています。

これらも通常であれば「原作の設定改変」としか思えないことですが、先に述べた前提を知っていれば、

「ドラクエの主人公(勇者ではない)が魔王を倒した」のではなく

  • 「VRゲームをプレイしていた映画の主人公が、たまたまトラブル(ハッカーのウイルス攻撃)にさらされて、それと戦う羽目になり、敵を倒してゲームの世界を守った。
  • 劇中のキャラから『君こそ本当の勇者だ』と讃えられるが、これは『かつて自分のかけがえのない原体験となったゲームの世界が壊されようとするのを自分の意志と力で守り、そのことをそのゲームの中の登場人物たちがたたえてくれた』という「他のドラクエプレイヤーにはない、自分だけの体験」を描いていた

というふうに表現できます。

また、山崎監督は「ユア・ストーリー」公開後のインタビューで次のように語っています。

 今作では、同時に脚本も担当した。誰もが知る大人気ゲームを劇場版アニメ化するにあたり、「いろんな人たちが『この物語の中にいたことがある』という感覚を思い起こせるものを書きたいな、と思っていました」と山崎総監督。脚本執筆前は、プレーヤーたちの体験や思いを知るために“取材”もしたという。「『ドラクエ』にすごくハマっている、仕事で会った人や友人たちに取材しました。『ドラクエってどこが一番面白かった? どこがショックだった?』と。いろんな人たちが共通して挙げることは、大事にしないといけないと思ったんです」と明かす。

https://mantan-web.jp/article/20190801dog00m200054000c.html

山崎監督が「ユア・ストーリー」で本当に描きたかったのは「ドラクエにハマった人たちが皆感動したゲームの中での体験」ではなく「ドラクエをプレイする中で、一人ひとりの個人が個別に体験した人生の一幕」だったのではないでしょうか。

たとえば「ビアンカとフローラどちらと結婚するか?」という点では、ビアンカ派とフローラ派、それぞれがいるため、ファンの意見は必ず割れてしまいます。

しかし「ドラクエをプレイしていて感じた忘れられない体験」は、どのプレイヤーにもあるはずです。たとえば「友達と早ときを競い合った」とか「当時の好きな子と一緒に並んでゲームを遊んで語り合った」というような個人ベースの体験です。もちろん、そうした体験は人によって千差万別のため、映画の中で決まりきった形で描くことはできません。

ですが「ゲーム世界を壊そうとするハッカーの悪巧みを打ち砕く」という形で「映画の主人公ひとりだけのかけがえのない体験」を描いて見せることで「これとは違うかもしれないが、同じような『自分だけの体験』がみんなにもきっとあったはずだ!それを思い出してくれ!」という山崎監督のメッセージが込められていたのではないか、と思います。

「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」は、「ゲーム=仮想現実というたとえで、ゲームやゲーマーをバカにしている」、「主人公がそれを『ゲームも体験した本人に取っては現実だ』という手垢の付いた表現で打ち破るのも新規性がまったくない」といった文脈で否定的に語られます。

しかし、山崎監督が本当に描ききったのはそういった文脈ではなく「映画の主人公の体験を通じて、あなた自身の人生の中のかけがえのない体験(ユア・ストーリー)を思い出してほしい」という文芸作品的な文脈ではなかった、あと私は考えています。

残念ながら、必ずしも多くの人にその意図が伝わったとは言えません。これを受けて、それ以降の作品である「ゴジラ -1.0」では、もう少し伝え方をブラッシュアップしていったものと思います。

映画の世界から現実の世界に引き戻される体験

さて、だいぶ話が脱線してしまったので「ゴジラ -1.0」の話に戻りたいと思います。

私はゴジラ -1.0においても「ユア・ストーリー」と同じように、

  • 表面上はわかりやすいエンタメ映画として描きながら、文芸作品的な要素を入れ込んでいた
  • そしてその文芸作品的要素は「個人の体験」をリフレインするための装置として用いられた

と考えました。

すでに述べたように、劇中の世界は現実とは異なる「バーチャル戦後」であり「現実の戦後」とは異なる非常に都合のいい展開が続きます。しかし、そういった「ご都合主義的展開」を乗り越えて、ハッピーエンドを迎えるかと思われた最後の最後で、典子の首筋に浮かび上がる黒いアザ=現実の日本人のトラウマを見せられたときに、一気に視聴者の気持ちは「現実の戦後日本」に引き戻されるわけです。

  • 現実には高雄や震電は実践では使われなかった
  • 特攻隊でも大勢の人が犠牲になった
  • 戦後、生きていくのに苦労した女性や子どももたくさんいた

という「現実の戦後日本を生きた人々」の「個別の体験」、そしてそれを見聞きし、知っている我々戦後に生まれた後の世代の日本人の「個別の体験」、そういった部分が劇中の「バーチャル戦後」を鏡として、焦点が当てられることになるわけです。

私はこの描き方は極めて文芸的かつ秀逸な表現だと思っています。

エンタメとして見る人の心にも残る「なにか」はある

最後に、残った山崎監督の作家性を表現する構成要素について簡単に触れて終わることにします。

  • 文芸作品的要素はあえて強調せず気づく人だけ気づいてくれれば良い形にしておく
    →典子の黒いアザに込められた意味に気がついた人だけが気づいてくれればいい
  • ストーリーの中核は「作中の舞台設定で、個人がどんな体験をしたか」を描く
    →「バーチャル戦後」の鏡合わせで「現実の戦後」で個々の日本人がどんな人生を歩んできたかを見る人に考えさせる

まず、文芸作品的要素を明確に言葉にせずに人やモノに込めて表現した、という点は良かったと思います。文芸作品的要素は、見る人によって解釈が異なるため、あまり多くの人に伝わりすぎるとデメリットのほうが大きくなってしまいます。「ユア・ストーリー」は「僕は勇者だったんだ」というセリフなど、色々なところで言葉にしすぎてしまったことが、否定論が多く出る原因になってしまったと思います。ゴジラ -1.0にしても一言で言えば「戦後日本の総批判」みたいな内容になってしまうため、これを「多くの人に伝わる形にする」のはリスクが大きすぎると言えるでしょう。

「ドラクエをプレイしてどんな体験をしたか」と同じように、あるいはそれ以上に「現実の戦後でどんな体験をしてきたか」というのは個人ごとに差があり幅が広すぎるテーマです。本来、創作物の中では描きようがないのですが、「理想的なバーチャル戦後を描き、それを鏡として見る人一人ひとりに考えさせる」という方法で描ききったのはまさに見事だと言っていいでしょう。

ゴジラ -1.0は国内だけでなく、アメリカにおいても放映されています。海外でも肯定的に評価する声が多く、ゴジラ作品として歴代1位の記録を更新することになりました

https://www.cinematoday.jp/news/N0140338

今回山崎監督が仕込んだ「文芸作品的要素」は、当然ながらアメリカ人にはまったく刺さらないでしょう。彼らは戦勝国の民であり、日本人のように「戦後のトラウマ」を抱えていません。もし同じような文脈で描くのなら「ベトナム戦争」あたりをテーマとしてランボーのような作品を撮るほうが効果的かもしれません。

「ユア・ストーリー」では、文芸作品的な要素を「多くの人に伝わるようにしすぎた」ために、思わぬ反発を受けてしまったわけですが、そこをうまくチューニングし「日本人の中の、ごく一部の人」が気づく程度に留めたのはよかったと思います。大多数の日本人、そしてアメリカ人など「戦後のトラウマ」を知らない人々には「100%エンタメ作品」として解釈されるはずだからです。

しかし、文芸作品が「意味を理解できなくても、なんとなく心に残る何かがある作品」と解釈するなら、今回のゴジラ -1.0をエンタメとして楽しんだ人々の心にも、何らか余韻は残るはずです。その余韻は、典子の黒いアザのようになにかのきっかけで後々、再び蠢き出すときが来るかもしれません。

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Webライター・マーケティングコンサルタントとして活動しています。実務を通じて学んだマーケティングに関するノウハウや最新情報をわかりやすく提供していきたいと思っています。 また、時事に関わるニューズをマーケティング・ライティングといった切り口から解説してみたいと思います。

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