『キルケーの魔女』考察①:「オエンベリ」と「艦上の生活」が削っていくもの

この記事では『キルケーの魔女』を“ストーリー紹介”ではなく、「映像と人物の内側」に絞って感想・考察していきます。第1回は、オエンベリで提示される“記録された暴力”と、艦上で進むハサウェイの破綻(理想と私生活)までを扱います。

冒頭:オエンベリ虐殺と「記録される暴力」

『キルケーの魔女』は前作の舞台だったダバオから地続きで始まり、序盤でオエンベリで起きた虐殺が描かれます。
連邦側のモビルスーツが市民を殺害し、その様子をニセマフティ側がカメラで記録している、という構図です。

ここで印象的なのは、虐殺の出来事そのものというより、「記録されている」という点でした。
映像として撮られたものが、のちに宇宙へ持ち出され、連邦の横暴を訴える材料として使われていく、という流れが示されます。

またこの場面では、モビルスーツや連邦軍の装備が細部まで描き込まれていて、映像としての完成度が高い一方で、見せ方としてはどこか冷たく、暴力的に感じるように配置されているようにも見えます。

回復した地球の自然と、人工物が“異物”に見える対比

本作の映像で特に強く残ったのは、戦闘そのものよりも、海や空、森といった地球の自然の描き方でした。
戦乱が長らく大規模には起きていない時代だからこそ、自然環境が回復してきているように見える——その前提を、映像の説得力で押し切ってくる感覚があります。

面白いのは、自然の描写が美しければ美しいほど、同じくらい丁寧に描き込まれているはずのモビルスーツや兵器が、どこか“よそよそしく”見えてくることです。
兵器の描写自体は綺麗で、ディテールも細かく、純粋に映像としては見応えがあります。にもかかわらず、自然の中に置かれた瞬間に、人工物が異物として浮き上がる。

私はここに、この映画の見せ方の特徴があると思いました。
つまり「兵器=悪」と断定するというより、自然の肯定感を強く出すことで、戦争や兵器といった人工物が「何かを壊す側のもの」として感じられるように、コントラストで見せているのではないか、ということです。

オエンベリ寄り道:ハサウェイの理想主義が“現実”に削られる

マフティーは本来の作戦だけを見れば、アデレード会議襲撃へ向けて動くはずでした。ところが作中では、支援艦ヴァリアント上で状況を整理する中で、オエンベリの虐殺情報を掴み、いったんそちらへ向かう流れになります。

ここは、戦略上の寄り道であると同時に、ハサウェイという人物の内面を炙り出す場面にもなっていました。

オエンベリでは散発的な戦闘が起き、ハサウェイは敵モビルスーツを撃破して捕虜を確保します。そしてその過程で、ニセマフティー側の部下たちが虐待を受けていた事実を知り、ハサウェイがショックを受ける描写があります。

この反応が、私はハサウェイの「まだ理想主義を捨てきれていない部分」を示しているように見えました。
テロという手段を選んでいる以上、そこに必ず人権侵害や暴力の連鎖が入り込む可能性はある。それでもハサウェイは、目の前の現実に動揺してしまう。その揺れが、後半へ向けた伏線になっているように感じます。

そしてこの場面で効いているのが、ガウマンの反応です。
ガウマンは、ハサウェイのショックに対して「そんな事態が起きないとでも思っていたのか」というニュアンスで突き放します。言い方は荒いですが、ここでガウマンは「戦争やテロを選ぶということ」の現実を、ハサウェイに突きつけているように見えました。

さらに印象的なのが、ガウマンが顔につけていた絆創膏を剥がす所作です。
前作でガウマン自身が捕虜となり暴行を受けた経験があることを踏まえると、これはハサウェイへの皮肉や嫌味にも見えますし、「自分はそういう現実を通ってきた」という距離の取り方にも見えます。

ハサウェイにとっては、理想を掲げるだけでは済まない現実が、ここではっきり形になって現れた、と言えるのかもしれません。

ケリアとの亀裂:咀嚼音が示す関係の終わり

ハサウェイの精神的な追い詰められ方は、戦闘シーンだけでなく、ヴァリアント艦上での“生活の描写”にも滲み出ていました。
その象徴が、恋人であるケリアとのすれ違いです。

ケリアはハサウェイに薬を勧めたり、食事を用意したり、いわば看護に近い形で精神面を支えようとします。ところがハサウェイのほうは、ケリアと同じ空間にいること自体が負担になりはじめているように見えます。

とくに印象的なのが、ケリアが近くで食事をしているときの咀嚼音が気になってしまう描写でした。

ここは台詞で「気持ちが離れた」と説明される場面ではありません。むしろ逆で、生活音のレベルまで受け付けなくなっていることで、関係の終わりが観客に伝わってきます。

私がこのシーンを見て思い出したのは、離婚相談などの場面で使われるという、ある例え話です。別れを考えている相手について「その人が残した刺身を食べられますか?」と問うことで、まだ関係を再構築できる余地があるのか、それとも気持ちが完全に離れているのかを見極める、という話を聞いたことがあります。

咀嚼音が気になってしまう、という描写は、まさにそれに近い形で「もう同じ生活を続けられない」というところまで来ていることを、言葉ではなく映像で示しているように感じました。

そして決定的なのが、出撃前にケリアが髪をすべて切り、剃ってハサウェイの前に現れる場面です。

この行為は台詞で説明されない分、解釈の余地が大きいのですが、私は大きく二つの意味を感じました。

一つは、恋人としての自分よりも、マフティーの同志として支える側に回るという覚悟の表明です。女であることを捨ててでも、あなたの理想に付き添う、という意思表示に見えます。

もう一つは、関係が壊れかけたときに起きがちな「最後の呼びかけ」です。髪を切ることで相手の反応を引き出し、まだこちらを見てくれるのかを試す、という行為としても読めます。

ところがハサウェイは、髪を剃ったことそのものにも強い反応を示さず、ギギとの関係を問われても「嘘は言っていない」といった表面的な返しに留まります。

ここでケリアは、実質的に見切りをつけたように見えます。その後、別の作戦へ志願して距離を取っていく流れは、「別れ」を言葉で宣言するよりも、かえって生々しく感じました。

この一連は、ハサウェイが“理想のために自分を削る”方向へ傾くほど、私生活が壊れていくことを示しているようにも見えます。

そしてこの破綻が、後半の「幻影」や「贖罪」の話に、そのまま繋がっていきます。

幻影と贖罪:ハサウェイが理想に殉じる理由

本作のハサウェイは、作戦の局面だけを見れば冷静で、情報戦も見抜ける人物として描かれています。ですが同時に、精神面ではずっと不安定さを抱えているようにも見えます。

それが分かりやすく表れるのが、追い詰められたときにクェスの幻影を見るなど、過去の記憶が割り込んでくる描写です。

この“見えてしまうもの”は、ニュータイプ的な奇跡の力として描かれているというより、むしろハサウェイが抱え続けている傷が、ふとした瞬間に顔を出しているような感触があります。

そして、その傷の中心にあるのが、逆襲のシャアで経験した出来事——クェスの死と、さらに映画版の流れではチェーンを自分の手で殺してしまったという事実です。

ハサウェイはこの二つを「自分のせいで死んでしまった」と抱え込み続けています。

だからこそ彼は、ただ義憤や世直しの気持ちだけでマフティーのテロに向かっているのではなく、もっと個人的な動機——贖罪のための生き方として理想へ殉じようとしているようにも見えます。

私にはここが、本作の一番怖いところであり、一番面白いところでした。

人が過激な行動にのめり込む理由は、いつも社会への怒りだけではありません。個人的な罪悪感やトラウマが、ある瞬間に「理想」や「使命感」と結びついてしまい、本人にとってはそれが“正しい生き方”のように感じられてしまうことがあります。

そしてこの構造は、ガンダムシリーズの中でも、どこかシャアの描かれ方と重なって見えます。

シャアはザビ家への復讐を一通り果たしたあと、「次に自分は何をするべきなのか」を探している状態にありました。そこでララァと出会い、ニュータイプという新たな可能性に触れ、自分のアイデンティティや役割を考え始める。けれど、その答えが出切らないままララァを失ってしまう。

だからこそシャアは、失ったものへの悔恨や埋められない空白を抱えたまま、よりいっそう“理想”へ傾いていった——そういう解釈ができると思います。

今回のハサウェイも、クェスとチェーンという喪失を抱えたまま、その痛みを処理する形で理想へ自分を縛っていきます。

ここで描かれているのは、世直しの正しさというより、喪失が人を理想へ追い込む力なのではないか、と私は感じました。

(※第2回以降は、ケネス/ギギ/エアーズロック戦から「清めの魔女」回収、最終章予想へ進みます)

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Webライター・マーケティングコンサルタントとして活動しています。実務を通じて学んだマーケティングに関するノウハウや最新情報をわかりやすく提供していきたいと思っています。 また、時事に関わるニューズをマーケティング・ライティングといった切り口から解説してみたいと思います。

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