「封神演義」は中国は明の時代に作られた小説ですが、日本では藤崎竜氏が週刊少年ジャンプで連載した漫画を思い出す方も多いでしょう。
藤崎竜版「封神演義」は安能務氏が翻訳した封神演義を原作として、1996~2000年の4年間連載され、後にアニメ化もされた作品です。「古代宇宙飛行士説」など、SF的な要素を取り入れつつ、古典に独自の再解釈を加えた作風から、大きな人気を呼びました。今回はその封神演義を元に作者・藤崎竜の作家性(作家としての個性)を考えてみたいと思います。
藤崎竜版「封神演義」について
最初に、藤崎竜版「封神演義」について、簡単にご紹介しておきたいと思います。(といっても、単なるWikipediaからの引用ですが・・・)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E7%A5%9E%E6%BC%94%E7%BE%A9_(%E6%BC%AB%E7%94%BB)
中国の古典怪奇小説『封神演義』を原作(厳密には下記の通り)としている作品。原典にはないコメディ要素や改変点も多く盛り込められている。また、メタフィクション要素やオマージュ的表現も積極的に取り入れられている。
1999年には「仙界伝 封神演義」としてアニメ化もされましたが、まだ漫画版が連載途中であったということもあって、ストーリーはオリジナルの展開となりました。また、2018年現在、再アニメ化した「覇穹 封神演義」が放送中です。こちらは原作になぞらえたストーリーですが、一部のシーンを削除したり、順序を入れ替えたりしていることからファンの一部に不評を買っているようです。
今回は、藤崎竜の作家性を読み解くために2つのシーンを取り上げたいと思います。
太公望と聞仲の初対決
ひとつ目のシーンは、主人公の太公望がライバルの1人である聞仲と初めて戦うシーンです。(単行本6巻、アニメ「覇穹 封神演義」5話)
太公望は西岐、聞仲は殷とそれぞれ違う国で軍師を務めていますが、どちらも「人間ではなく、仙人である」という特徴があります。当時、世界は殷の妖怪仙人「妲己」の影響によって大いに乱れており、2人には「妲己を倒す」という共通の目的もあります。
しかし、太公望は「西岐を盛り立て、殷を滅ぼす過程で妲己を倒し世の中を良くする」という方法を選んだため、「妲己を倒し、殷を再興することで世の中を良くする」という方法を選んだ聞仲と対立してしまいます。
このシーンは、「お互いの立場の違いから2人は戦い、聞仲が優勢になるものの太公望の人格を認めてその場を立ち去る」という形で終了しました。
封神演義のワンシーンから読み解く藤崎竜の作家性
太公望と聞仲の初対決のシーンは、次のように分析することができます。
- いくつかの共通点を持つ登場人物AとBが出会う
- AとBには共通点も多いが、相違点から異なる態度・行動を取る
- Aの影響で、Bの態度・行動が変化し、ストーリーが次の展開に進む
私はこのように、「2人の登場人物の『共通点と相違点』を物語の中で照らし合わせること」、そしてその過程で「キャラクター同士が影響を与えあい、態度や行動が変化することでストーリーが進んでいく」という点が藤崎竜の作家性を示す特徴だと考えました。
「姫昌の死」で描かれる「人ぞれぞれの悲しみ方」
同じような描き方が見られるシーンをもう一つご紹介しましょう。太公望が属する国、西岐の領主であった西伯侯姫昌が死に、息子の姫発が後を継ぐシーンです。(単行本7巻、アニメ「覇穹 封神演義」6話)
姫発は父の死を悲しみますが、弟の周公旦や太公望が淡々と殷との戦争準備を進めていく様子を見て「お前たちはおかしい」、「悲しむ時間もないってのかよ」と憤りを露わにします。それに対して太公望が「人にはそれぞれの悲しみ方があるのだ。自分だけが悲しいと思ってはいかん」と諭し、姫発は何かを悟って納得するというのがこのシーンの流れです。
ここでもやはり、太公望、姫発、周公旦という登場人物には「姫昌を失って悲しい」という共通点はありますが、太公望の台詞にあるように太公望・周公旦と姫発では「悲しみ方」という相違点があります。ですが、太公望の言葉で姫発は己のすべきことに気が付き、「ただ悲しみに暮れる」という態度・行動を「父の遺志を継ぎ、殷打倒に進む」という方向に改めています。
キャラの共通点・相違点から魅力的な群像劇が描かれた
「封神演義」は、非常に多くのキャラクターが登場する群像劇です。主要キャラクターだけでなく、脇役にも数多くの出番が割かれます。そんな中で、キャラクターが個性を発揮するには単に見た目が特徴的なだけではいけません。「内面を描いてキャラ付けする」という方法もとれますが、登場キャラクターが多いとそれだけでは1キャラごとに十分な紙面を割くことができません。
しかし、藤崎竜がこれらのシーンで取ったような描き方をすれば、複数のキャラクターの個性を同時に描ける上に、ストーリーを新たな方向へ自然に展開していくことができます。藤崎竜の作家性は、まさに封神演義のような群像劇を魅力的に描くのに適した個性だったといえるでしょう。本作が繰り返しアニメ化もされるような、根強い人気を得ることができた背景にはこうした要素があるのかもしれません。